絹産業は川の流れに例えられる。
川上に養蚕や製糸といった原料があり、
川下にある製造や販売を通じて、
消費者とつながるエコシステム(生態系)。
どこか一つの工程が欠けただけで、
その循環は枯れてしまう。

大量生産、大量消費を追い求めた、
近代に「さよなら」を。
環境や自然に配慮しないものづくりは、
サスティナブル(持続可能)じゃないと
世界が気付き始めている。

分断された絹産業の川を一つにつなぐ、
次の「シルクカントリー」を展望しよう。

手から手へ。つなぐ産地の物語

繊維産業の衰退で
いくつもの技術が途絶える一方、
次代の産地を担う若い芽が育ちつつある。
今回、気鋭の映像ディレクター、
肥留川宇志さん(富岡市出身)に撮影を依頼。
グローバルな活動を展開する
クリエイターの目で、
産地の「今」を切り取ってもらった。
養蚕農家
ワンポイント

富岡市桑原の養蚕農家、高橋純一さん(70)は、長男の直矢さん(28)とともに年5回の養蚕に取り組む。大学卒業後に家業に入った直矢さんは、就農6年目。切られた桑の木を見て、「切り方がなってねえな」とつぶやく父の顔は、言葉とは裏腹にうれしそうだ。

朝4時半から軽トラックいっぱいに切る。夕方も繰り返し、それが2週間続く。上蔟してからも湿度や温度に気を配る。「蚕は正直。手間をかけただけ、大きくていい繭ができる」。現在、年間約1トンを出荷。春蚕だけで500キロ採れた時もあったが、「今は量より質。高橋さんちの繭がほしいって言われれば、張り合いがあるよ」

世界遺産登録を機に補助金が増えたが、養蚕だけでは厳しい。養蚕の合間を縫うようにタマネギやコメ、シイタケを生産する。小さな頃から軽トラの荷台で過ごし、文字通り両親の背中を見て育った直矢さんは、「継ぐな」と言われながらも、「両親が元気なうちに教わりたい」と家業に飛び込んだ。何より、農業が好きだった。

直矢さんは2年前、農林水産省が開いた産地後継者らの意見交換会で、「東京五輪のメダルリボンを国産シルクで」と提案した。製糸も染めも織りも、日本の伝統が生かせるからだ。大学時代の友人で、出場を目指す陸上やり投げの新井涼平選手の存在も大きい。その首に、自分が手掛けるシルクリボンがかかる日を想像する。「小さな物語だけど、それが付加価値を生む時代。五輪が日本のシルクを世界にアピールする機会になれば」。糸のように紡がれてきた産地の物語は、これからも続いていく。

染色家
ワンポイント

100年近くの歴史を有する旧山崎染色(桐生市東)は、初代・山崎清四郎さんが創業。主に絹糸の染色を手掛け、桐生市内の機屋に納めていた。

かごの間に布を挟んでまだらに染める「かご染め」、筒を使って横じまに占める「筒染め」―。2代目で伝統工芸士の貞治さん(故人)と、その息子の晃さん(65)は研究を重ねて高度な染色技術を生み出したが、繊維業の衰退に伴って受注が減り、廃業の危機に。

4代目の平本ゆりさん(32)は多摩美術大を卒業後、都内でグラフィックデザイナーとして活躍。「伝統ある染色技術を絶やしたくない」と2018年に家業を継いだ。屋号を「桐染」と改め、小ロットの染色注文のほか、自社技術を生かした浴衣や小物の製造、オンライン販売を手掛ける。

父と娘。年代も性別も違う2人の職人が、共同で生み出すのは「染色で表現する涼やかさ」だ。手作業の「かご染め」でつくる浴衣は、川の流れのように一つとして同じ模様はない。グラフィックデザイナーとして培った「伝える力」を生かし、自社ブランドの構築やインスタグラムを活用したPRも強化。桐生産地に新たな風を吹き込む。

「伝統」の進化に期待

肥留川 宇志
肥留川 宇志

全体的に見れば衰退傾向にある産地ですが、今回訪れた2軒では、生産者の方が生き生きして見えたのが印象的でした。いずれも親子二代。親が子に伝統を継承し、子がその伝統を現代風にアレンジしようと努力している姿に、今後の可能性を大きく感じましたし、業種は違えど共感するところが多く、良い刺激になりました。

伝統って、保守的になってはいけないと思うんです。時代のニーズに合わせて柔軟に対応し、徐々に形を変えながら後世に継承していくものなのかな、と。若い世代が盛り上がってくれば、伝統は必ず継承されます。東京五輪・パラリンピックを好機ととらえ、販売ルートやメディアへの露出の工夫を、行政や中間業者、地域の人々で開拓していく必要があるのかなと思いました。

今回撮影依頼が来た時、富岡市出身の人間として、研さんして得た経験や知識を十分に発揮し、少しでも印象の良い写真に仕上がるよう、頑張りました。この写真が少しでも多くの人の心に響けば幸いです。

ひるかわ・たかし 1982年、富岡市生まれ。農大二高ー京都造形芸術大卒。映像ディレクター。スポーツブランドを中心に、アパレル、音楽業界の映像を制作。演出・撮影・編集を一貫して担当し、 独自の世界観を表現する。

日本のファッションは、 産地で面白くなる

ファッションキュレーター  宮浦 晋哉 さん

なぜ日本には繊維産業が必要なのか。国内繊維産地が持つ技術を次の世代に残したいという責任感は、もちろんあります。それ以上に、国内産地がなくなったら、多くのデザイナーのコレクションが成り立たなくなるのです。

デザイナーが求める新素材は、国内産地によって生み出されています。世界にはイタリアや中国といった繊維大国がありますが、異素材をミックスしたり、手作業を必要とする難易度の高い素材を生産できたり、デザイナーの要求に応える技術は日本の強みです。弊社では年間約100ブランドの生産に関わっていますが、これが今のファッション界の現実です。

一方で、産地の現状は厳しさを増しています。繊維産業は1990年代をピークに製品出荷額は減り続け、現在は職人の高齢化や後継者不足も深刻です。2020年を節目に廃業を考えているという声も各地で聞きます。特に、仕上げの染色整理加工が廃業するケースが多い。分業制が進んだ産地は、一つ工程ができなくなると生産そのものが途絶えてしまいます。

繊維業界は製造と問屋の分業制で発展してきましたが、生産量が減ったことで問屋を通さないビジネスが増えています。アパレル産業では大量生産、廃棄による環境負荷が問題になっていて、必要な分だけ受注する小ロット生産もますます需要、必要性が高まってくるでしょう。この直接取引の流れは、桐生のように東京から近い産地の追い風になります。桐生産地は、昔からデザイナーやアパレルメーカーと直接やり取りしてきた実績があります。

オランダ・ティルブルグの「オーダックス・テキスタイル・ミュージアム」を知っていますか。織物の歴史を学ぶだけでなく、デザイナーが研究、制作するための実験場を備えた素晴らしい施設です。同様の博物館を日本に造るなら、最も適した場所は桐生でしょう。都内からの距離感、産地の技術力と対応力、懐の深さ―。日本の繊維産業支援の拠点となる要素が、桐生にはそろっているのです。

織物や染色、縫製といった繊維技術に魅力を感じて、今、産地を目指す若者が増えています。作り手の顔が見える産地のものづくりは、ローカルブームもあって若者たちの憧れです。ファッションやテキスタイルといった領域で、彼らは「温度感のある仕事」に強く引かれています。

播州織の産地である兵庫県西脇市では、ファッション都市構想を掲げて、若手デザイナーの移住を支援しています。すでに約20人の若者が産地に入り、活気があります。移住者が中心となって生地のマルシェ「播州織産地博覧会(播博)」が始まり、産地の知名度が高まりつつあります。

産地の活性化もまちづくりと同じです。鍵は交流人口にあり、特に若い人を産地に呼び込んでほしい。雇用のきっかけは、インターンシップや工場見学です。「糸へん」産業を愛する若者が産地に足を踏み入れる、それだけで地域は大きく変わり始めます。

富岡製糸場に象徴されるように、日本は生糸の生産、輸出で発展した歴史を持っています。伝統的に製糸技術に優れ、その価値は世界で評価されています。ファッションだけでなく、テクノロジーと衣服を掛け合わせた「ファッションテック」の開発でも産地の匠の技が重要です。群馬は繭の産地であり、碓氷製糸という国内最大手の製糸工場を有しています。世界遺産の知名度と産地の技術を掛け算することで、次世代のシルクを生み出すポテンシャルが限りなくあふれているのです。

宮浦  晋哉
みやうら・しんや 1987年千葉県生まれ。杉野服飾大卒業後、ロンドンに留学。海外で日本のテキスタイルが高く評価されていることに気付き、帰国後に国内の産地を巡る取材活動を始める。東京・月島のコミュニティスペース「セコリ荘」を拠点に、年間約200社の繊維工場を回って、工場とデザイナーのマッチングや国内外のブランドへの素材提案・生産サポートを行うファッションキュレーターとして活躍。17年に株式会社「糸編(いとへん)」を設立。繊維・ファッション業界での人材育成を目指した学校「産地の学校」を各地で展開している。名古屋芸術大特別客員教授。著書に「FASHION∞TEXTILE」など。
 仕事の延長で産地巡りと服を見るのが趣味。移動時間にスマートフォンで読む漫画が息抜きで、「東京喰種 トーキョーグール」など現実離れした世界観にひたるのが楽しみ。

未来に伝える絹の記憶

2019年6月25日に世界遺産登録5周年を迎える
「富岡製糸場と絹産業遺産群」。
近代産業遺産としては国内初の世界遺産で、
保存と活用の先進事例として
注目を集めている。

富岡製糸場を中心とした構成資産は、
建物の保存整備が着々と進行中。
展示物やガイドの充実、
体験イベントなど
“おもてなし”に工夫を凝らす。
2015年から保存整備工場が行われている国宝「西置繭所」。壁面を模したシートで建物全体が覆われていたが、2019年5月には4年ぶりに本来の壁面が見られるようになった。鉄骨の素屋根を解体した後、内装工事に入る(2019年6月14日撮影)

世界遺産登録から5年を迎え、構成資産の来場者は年々、右肩下がりの状態が続く。県は“オール群馬”で世界遺産観光を盛り上げようと、構成資産のある4市町を含む県内全域でイベントや記念行事を企画している。富岡製糸場開催のシルク博(10月)や繊維製品のファッションショー(同月)、県立日本絹の里(高崎市)の企画展(12月~2020年2月)のほか、県内の絹遺産をアプリで巡るスタンプラリーを開催するなど周遊観光のPRを図る。

◇  ◇  ◇

2020年春には、世界遺産観光の核となる総合ガイダンス施設「世界遺産センター」が富岡市役所前の富岡倉庫で開館予定。同年4~6月に開催される「群馬デスティネーションキャンペーン(DC)」や東京五輪・パラリンピックと重なり、集客の起爆剤として期待が掛かる。

◇  ◇  ◇

養蚕製糸業の担い手が減る中、絹産業の歴史や価値を次世代にどう伝えるかも課題となっている。富岡製糸場世界遺産伝道師協会は養蚕信仰の対象となった「蚕神(さんしん)」を調査し、歴史観光できる周遊コースにまとめた。子供たちへの継承のために学校キャラバンを例年の年20回から50回に増やし、繭から糸を引く座繰りなど体験を多く盛り込む。

4資産へようこそ

富岡製糸場

社宅整備し座繰り体験

「左手で座繰り器を回して、右手で繭の糸を引き出す。そう上手」。富岡製糸場(富岡市富岡)の体験施設「社宅76」では、指導員の手ほどきを受けながら、親子連れが座繰り体験を楽しんでいた。都内から娘2人と訪れた女性は「子供たちは生糸が蚕の繭から作られることさえ知らなかった。製糸場の歴史とともに、繭や糸ができる過程を体験できてよかった」と満足そうに語った。

保存活用に向けて順次、建物の整備が進む富岡製糸場。2019年4月には、昭和時代に従業員が家族と暮らした「社宅76」の工事が終わり、座繰りや繭クラフトの有料体験施設として開業した。

有料の座繰り体験ができる「社宅76」

座繰りは、器械製糸が導入される以前の伝統的な製糸法。実際は富岡製糸場では行われていなかったが、繭から糸を引く仕組みを学ぶ体験として人気が高い。これまでは休日のみ東置繭所で行っていたが、「社宅76」の開業によって常時、体験が可能になった。

来春は6年がかりで整備を進めている国宝・西置繭所の保存修理事業が完了し、秋には多目的ホールや展示室を備えた施設としてオープン予定だ。建物の特性に合わせた活用が進む一方、公開できている建物は全体の3割に過ぎず、今後は東置繭所や繰糸場といった大型の整備事業も控える。世界遺産登録のブームも下火になり、昨年度の来場者数は約52万人でピーク時の4割弱にまで落ち込んだ。製糸場の保存整備費用を確保するには50万人台の来場者の維持が必要となり、富岡市は体験型施設やガイドツアーの充実によってリピーターの獲得を目指す。

メモ
▽開場 9~17時(受け付けは16時半)▽見学料 大人1000円、高校生・大学生250円(学生証が必要)、小・中学生150円▽休場日 年末(12月29日~31日)▽0274・64・0005(市富岡製糸場課)
「社宅76」の座繰り体験は「糸枠飾り作り」2000円、「糸取り体験」200円。このほか「繭クラフト体験」600円など。
田島弥平旧宅

価値や歴史を強力発信

田島弥平旧宅(伊勢崎市境島村)は、近くの旧境島小内に新案内所が昨秋オープンしたことで、旧宅の価値や蚕種の歴史などを一層強力に発信する態勢を整えた。旧宅内で養蚕道具などを展示している施設「桑場」内では、市内の小学生が調べてまとめた弥平の業績などの資料が30日まで展示され、来場者を楽しませている。桑場の隣にあり、弥平の隠居所と推定される建物「別荘」の修復もスタート。伊勢崎市教委は29日午前10時と同11時の2回、発掘調査の現地説明会を予定する。

新案内所は、かつて校長室と職員室だった場所。校舎東側にあった旧案内所と比べ、4倍に広がった。

案内所には、田島弥平の著書「養蚕新論」「続養蚕新論」の実物と版木などが展示されている

展示資料は、弥平が1872(明治5)年に刊行した著書「養蚕新論」、79(同12)年の「続養蚕新論」の、実物と版木のほか、「蛾輪(がりん)」と呼ばれるカイコの産卵用補助具といった蚕種業用具など計50点。往時の地区の様子や弥平の仕事ぶりを伝えている。

旧宅の敷地内では現在、「別荘」の修復工事が進む。築造年代は敷地内で最も古く、老朽化が進んでいたため、修復に着手した。蚕種の製造を田島家が終えた1940(昭和15)年ごろの姿に修復する。2020年度中の完了を目指す。

別荘に絡み、主屋の隣にあった「新蚕室」跡地の発掘調査が5月27日からスタートしている。市教委によると、別荘は新蚕室の建っていた場所にあった「隠居」の一部を移設したと考えられてきたが、建物の規模などから考えると「隠居」に接してあった「馬屋」だった可能性もあり、発掘調査を進めている。

メモ
旧宅案内所も共通▽見学時間 9~16時▽見学料 無料▽休館日 年末年始(12月29~1月3日)▽0270・61・5924(案内所)
 ※新1万円札の肖像に採用された渋沢栄一は、弥平の本家、田島武平と親戚だった。蚕種をイタリアに輸出した島村勧業会社の設立を指導するなど島村と関係が深い。生家が弥平旧宅から自動車で10分弱の場所にある。
高山社跡

長屋門修復 新たな発見

約60年ぶりに修復工事が進められていた高山社跡(藤岡市高山)の長屋門。3年の歳月を経て昨秋に工事が完了し、2019年4月から一般公開が始まった。明治から大正期の分教場時代の外観を再現、内部の2部屋には、関連資料など約80点を展示する。

修復の基本はオリジナルをできるだけ残すこと。約1200枚の瓦のうち、3分の2は古い瓦を使用。窯印などから藤岡産と判明し、新しい瓦も藤岡の窯元に発注した。昭和の改修でふき替えられた屋根最上部の瓦のふき方を、波の文様をした「青海波(せいがいは)」に戻し、2019年3月末には長屋門前の電柱が地中に埋められ、景観も良くなった。傷みが激しかった屋根の下地となるササイタを作れる職人がいないため、同様の形ができるまで試行錯誤。柱材の国産のツガは希少で、取り寄せに労力を要した。

母屋から眺めた長屋門。修復工事が完了、一般公開が始まった(上)。

修復時の調査で発見もあった。門東側の部屋の床面の焼け跡は、実習で繭を煮たことも想像でき、門西側の部屋の壁などに墨で書かれた多くの落書きの中に「高山分教場一号室」の文字が見つかり、実習場として使われていた可能性が高まった。

新たな取り組みでは、QRコードをスマートフォンで読み込むと、高山社跡の内部映像などを見られるほか、分教場当時の姿をCGで作成した映像を、2020年度公開する予定だ。昨年6月には乾燥場の地下遺構、2019年2月には分教場時代のものと思われる石垣の発見、今後は母屋の修復など話題が絶えることはない。

藤岡市教委文化財保護課の軽部達也課長は「いつまでも楽しく学べる場所として後世に伝えていけるよう努力していく」と力を込めている。

メモ
▽見学時間 9~17時▽見学料 無料▽休館日 年末年始(12月28日~1月4日)▽0274・23・7703(高山社情報館)または0274・23・5997(藤岡市教委文化財保護課)
荒船風穴

昔と変わらぬ冷風体験

天然の冷風を利用して蚕の卵(蚕種)を貯蔵していた荒船風穴(下仁田町南野牧)近くの見学者広場に昨年10月、「風穴冷風体験館」が完成した。

風穴の周辺には冷風を吹き出す場所が点在している。同館は、その岩塊そのものを建物の一部に取り入れた木造平屋建ての施設。自然環境に優しいバイオトイレが併設されている。岩塊から吹き出す天然の冷風は夏でも10度前後。扉を開けて入った瞬間に見学者から「わー、涼しい」と歓声が上がった。冷風の吹き出し口に設置されたデジタル温湿計は、気温8・5度、湿度86%を表示。見学用の切り株に座るとひんやりする。町が見学者の女性70人に行ったアンケートによると、「肌を刺すクーラーと違う快適な涼しさで居心地が良い」という回答が多かった。

冷たい空気は重く、下に沈むため、風穴冷風体験館の見学用のスペースは実際の地面より70センチほど掘り下げてある。見学者たちは岩間から吹き出す冷風にしばし暑さを忘れていた

町歴史館の秋池武館長は「風穴を覆うように建物があり、蚕の種紙が納められていた往時と、体験館は同じ環境です。『天然の冷蔵庫』といわれた、昔と変わらない冷風をぜひ体感してほしい」と話している。

先月11日から見学者用シャトルバスの運行が始まり、利便性が高まった。風穴から800メートル離れた駐車場までの区間を11月末までの土日祝日に、1日11往復する。時間は9時半~15時半。

町は本年度中の完成を目指し、風穴を見下ろす場所にあった管理棟「番舎(ばんしゃ)」の遺構整備を進める。大正初期に建てられた木造2階建ての建物の間取りを表す「遺構線」を御影石を並べて表し、かつての姿をイメージしやすくして展示の充実を図る。

メモ
▽見学時間 9時半~16時(受け付けは15時半)▽見学料 500円(高校生以下と下仁田町民は無料)▽休み 無休※12月1日~3月31日は冬季閉鎖▽0274・82・5345(下仁田町歴史館)

蚕神を訪ねて

蚕の「守り神」に和む
豊繭、慰霊、ネズミよけ

石に刻まれた女神像、白馬の背に乗る菩薩像、ネズミよけの猫絵ー。蚕の「守り神」として県内各地に残る「蚕神(さんしん)」は、養蚕業の衰退とともに忘れ去られようとしている。「令和」を迎えた今、蚕神を訪ね、養蚕が盛んだった「昭和」に思いをはせた。

かつて、世界に誇った本県の養蚕業。農家は蚕を「おかいこさま」「おこさま」と呼んで大事に育てた。しかし、病気に弱く、餌の桑はひょう害や霜害を受けて育てられなくなったりと、その難しさから「運の虫」とも呼ばれた。蚕が病気や災害に見舞われることなく無事に成長し、多くの繭が取れることを願う養蚕信仰が各地に生まれ、人々はより所となる「蚕神」を祭り大切に守ってきた。

富岡製糸場世界遺産伝道師協会は、昨年県内の蚕神に関する調査をまとめた。それによると、県内には文字塔や石像、石祠(せきし)、木祠(もくし)、木像、寺社など計456件の蚕神が確認されている。豊蚕・豊繭の祈願だけでなく、ひょうや霜害により、育てられず破棄せざるをえなかった蚕の鎮魂慰霊、蚕を食べるネズミよけと目的はさまざま。

蚕神の多くは、寺社の境内などにあり、大切に保管されたり、地域の人たちに守られ次代に継承されている。しかし、中には道路脇や山中にあるため、管理もおぼつかず、人々の記憶から消えつつあるものも。同協会は蚕神に親しんでもらうため、地域ごとに12の蚕神巡りコースを設定、コースを案内する小冊子を作製した。小冊子を手に心和む蚕の守り神を訪ねてみよう。

木像 馬鳴(めみょう)菩薩(安中市松井田町上増田の雲門寺)

白馬に乗った馬鳴菩薩。六つの腕には桑の小枝、種紙、糸枠などが握られ、「蚕の神」として信仰されてきた。
※見学には事前に雲門寺に連絡を。

自然石 根子(ねこ)石(安中市鷺宮の咲前神社)

卵形の大きな石に小石を供えて拝み、小石を持ち帰ってネズミよけとした。咲前(さきさき)神社は本殿、木祠・絹笠神社、養蚕絵馬など蚕神の宝庫。

石像 馬鳴菩薩(みどり市大間々町塩原の穴原薬師堂)

六角形の台座に載る光背座像。6本の手には、生糸、蓮華、蚕卵紙、糸枠、桑の枝、はき立て用の羽を持っている。

文字塔 蚕影碑(高崎市箕郷町柏木沢)

1887(明治20)年5月に榛名山麓を襲ったひょうの被害を伝える。桑の葉が無くなり、育てられなくなった蚕を葬り、蚕霊として慰めた。

書画 新田猫絵(太田市世良田町の市立新田荘歴史資料館)

新田岩松氏が四代にわたり描いた墨絵の猫絵。ネズミよけの効果があるとされ、蚕室などに貼られ養蚕の神様として信仰された。

巨木 薄根の大クワ(沼田市町田町)

樹齢1500年と推定されるヤマグワの大木。樹高は約13メートル。霜で周囲の桑畑が被害に遭った時に、この大クワの葉を与え蚕が助かったと伝えられる。

石像 蚕影明神(沼田市上久屋町の十二山神社)

円筒に刻まれた女神像。右手に蚕の種紙、左手に桑の枝を持つ。像の左側に3個、右側に5個の繭玉が彫られている。