下仁田社「金洞組」 地域の絹産業史に光
- 掲載日
- 2009/01/21
金洞組などの株券を示す飯嶋さん
組合製糸の下仁田社=豆字典=に加盟していた「金洞(こんどう)組」の歴史を掘り起こそうと、地元の下仁田町小坂地区の住民らが資料収集などを始めた。地域の民家から創立期の新築費決算録や決算報告書、株券などが見つかり、工場の一部とみられる遺構と合わせ、組合の事業の一端が解明されつつある。研究者は「資料の少ない下仁田社全体の実態を解き明かす上でも、積み重ねが重要」と、地域の絹産業史に光を当てる活動を評価している。
創立期の株券など地元住民ら発見 事業解明へ資料収集
これまでに集まった資料は、金洞組創立当初の工場・設備類の新築費決算録、一八九四(明治二十七)年発行の株式券状十五枚、同年度と翌々年度の決算報告書など。明治三十年代の金融の残貸記、組長だった斎藤倉七(下仁田社監査役)の日記帳も見つかった。
取り組みの中心となっている飯嶋常男さん(60)=同町上小坂=によると、金洞組が事業を展開したのは小坂川流域で、現在の同町中小坂、上小坂と西牧地区の一部。新築費決算録は創立時の株数や出資総額、工場・設備新設の支出金内訳を記載している。当初から工場三カ所を設けたとみられ、跡地の一カ所の脇に水路やえん堤が現存する。
各年度の決算報告書は、扱った糸量、売上金や支出を記載している。収支総額は八―九千円台で、飯嶋さんが計算したところ、現在ならば数億円相当という。飯嶋さんは「生糸が日本の近代化を担った中で、農村工業としておこった金洞組が村を潤し、地域全体を発展させたのではないか。工場運営に関する書きつけなども出てくれば」と話す。
飯嶋さんが父親の遺品整理中に創立関連の資料に気づき、倉七の家系の斎藤一夫さん(81)や斉藤利義さん(84)も資料を提供した。金洞組から分かれた金栄組の株券、同組に宛てた群馬蚕種株式会社(前橋市)の一代交雑種販売の手紙も残っていた。
西毛の組合製糸に詳しい富岡製糸場総合研究センターの今井幹夫所長は「下仁田社は社史もなく、資料をいま掘り起こさなければ、今後はもう出てこない。地域で協力の輪を広げてほしい」と話している。
- 豆字典 下仁田社
- 農家による生糸の共同販売組織の甘楽社から、馬山村(現下仁田町)以西の組合が分かれ、一八九三(明治二十六)年に設立。碓氷社、甘楽社と合わせて「南三社」と総称され、第二次大戦中の経済統制まで存続した。甘楽富岡地区農業協同組合百年史によると、金洞組は設立時の二十七組合の一つで、社の独立に合わせて創立、加盟したとみられる。