闊達だった「明治女」 島村のDNA自分も感じる 田島弥平の子孫で「宮中養蚕日記」を出版した 高良留美子さん
- 掲載日
- 2009/10/19
「民の日記から、女性にとって自由な時代だったことが分かる」と語る高良さん
伊勢崎市境島村の蚕種製造家、田島弥平(1822~98年)の長女で、明治初期に養蚕の世話をするため皇居に出仕した田島民。その記録を、民の子孫で詩人の高良留美子さん(76)が「宮中養蚕日記」として本にまとめた。日記には、自由闊達(かったつ)な女性たちの姿が描かれ、当時の女性観を知る上でも貴重な資料だ。先祖や島村に対する思いを高良さんに聞いた。
現場の記録
民を含む蚕婦12人は1872(明治5)年旧暦3月14日、島村を出発して上京し、同5月27日に帰郷した。弥平や同郷の蚕種業者、栗原茂平の指導のもと57日間養蚕に従事し、民は毎日の天気や、飼育していた籠かごごとの作業経過を克明に記している。
「養蚕のことを書いている部分は非常に使い慣れた言葉を用いている。おそらく普段の話し言葉なのだろう。養蚕は女性が支えてきたのに、女性が書いた資料はほとんどない。この日記は、現場で見聞きしたことをリアルタイムで書いているところに価値がある」
養蚕は吹上御苑の中の新築の蚕室で行われ、明治天皇と皇后もたびたび訪れていた。民の目に映った両陛下は意外なほど人間味があり、神格化が浸透する以前の時代背景を感じさせる。
「民の文章からは緊張した様子が見られない。幕府から皇室への過渡期で、庶民にとってまだ天皇の存在そのものが珍しかったのではないか。民たちがひそかに皇居内の橋を見に行って見つかる場面があるが、おとがめは受けなかった。皇室の雰囲気も緩やかだったのだろう」
寛容な時代
養蚕が終わると、民たちは横浜の外国人商館でビールをごちそうになったり、番頭の案内で遊郭・吉原を見物するなど驚くほど自由気ままな行動を取っている。
「東京や横浜の街を好奇心に満ちた目で見ている。島村の男たちは横浜開港直後から行き来していたので、都会の遊びを知っていた。そういう話を聞いて、女たちも行ってみたかったのではないか。また、それだけのお金も持っていた。教育勅語や民法が制定される前の時代で、社会全体の女性の見方が寛容だった」
明治20年代以降になると、女性の政治活動が全面禁止されるなど、女性の地位が低くなっていった。
「世界市場の圧力で生糸という半製品を輸出せざるを得なかったことは、小さな養蚕農家や製糸工場に過酷な労働を強いることになり、結果的に女性の地位の低下に影響したと思う。日本の近代化は養蚕・製糸が招いたのは変わらない事実だが、違う近代化の可能性もあったと考慮しながら、今回の日記をまとめた」
高良さんは民の孫娘の娘、つまり母方の血筋を継いでいる。母は参院議員を務め、女性運動家としても活躍した高良とみ(1896~1993年)だ。
「母はアメリカに留学しているが、弥平さんの土地があったから実現した。祖母もしっかり者で、島村の強い女性を純粋培養したような人だった。2人とも精神的な自由を求め、進取の気性があったように思う。島村のDNAのようなものを自分にもよく感じる」
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「宮中養蚕日記」はドメス出版刊。2625円。