高崎・日本絹の里 「群馬の風穴と蚕種」 23日まで企画展 養蚕発展の役割検証
- 掲載日
- 2011/05/07
県が作製した荒船風穴の模型(50分の1縮尺)。3基の風穴が完成した大正初期ごろを復元した
蚕の卵(蚕種)生産とそれを冷温貯蔵した風穴の養蚕発展に果たした役割を検証する企画展「群馬の風穴と蚕種」が23日まで、高崎市金古町の日本絹の里で開かれている。蚕種の産地として栄えた伊勢崎市境島村地区の歴史のほか、国内最大の蚕種貯蔵能力を誇った下仁田町の荒船風穴について模型や資料を使って詳しく紹介している。
荒船山の北ろく、標高約860メートルに造られた荒船風穴は三つの貯蔵所からなる。1号風穴は1905(明治38)年に建築。08年に2号風穴、14年ごろに3号風穴が建てられた。
岩の間から吹き出す冷風を地下部の石積み(深さ約4・2メートル)で閉じ込め、地上部には土蔵を設置。地下は2層で、地上部を含めると3層構造だった。3号を合わせた貯蔵能力は蚕種紙110万枚にも及んだ。
榛名(高崎市)、星尾(南牧村)など県内のほかの主要風穴の貯蔵能力が最高でも15万枚程度だったことを考えると突出しており、蚕種を一定期間冷蔵して全国各地に出荷。当時発達した鉄道、郵便を使って本県をはじめ東京、京都、島根、愛媛など取引は33府県に及んだ。
全国から需要があった理由は、ふ化しやすい優良蚕種を提供する優れた冷蔵技術にある。3層構造の貯蔵所は下に行くほど低温で、入荷や出荷の際は数日ごとに貯蔵場所を移し変えて急激な温度変化を避けたという。 富岡製糸場が建てられ、大規模な器械製糸が始まった1872(明治5)年ごろは春しか蚕を飼えなかったが、年2回ふ化する2化性の蚕種と風穴による貯蔵を組み合わせたことで、ふ化時期を調節して年に複数の養蚕が可能になった。企画展担当の上野邦彦さんは「複数回飼育により繭の生産量が増え、農家の収入増加につながった。風穴が果たした役割は大きい」と強調する。
島村の蚕種業を紹介するコーナー
一方の蚕種では、利根川流域の境島村地区で幕末から明治時代に発展した蚕種業の歴史を紹介。島村勧業会社を設立し、蚕種をイタリアへ4回直輸出した田島武平、田島弥平らの活動も取り上げた。
換気を重視した蚕飼育法「清涼育」を広めた弥平が72(明治5)年に記した「養蚕新論」の版木、その前年に宮中での養蚕の世話役を務めた島村の女性たちを描いた錦絵も並ぶ。 日本絹の里は2年前から毎年1回、本県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界遺産登録運動を推進しようと、養蚕・製糸関係の遺物に焦点を当てた企画展を開催している。
上野さんは「風穴や蚕種を単独ではなく、一連のつながりの中で理解してほしい」と話している。
「群馬の風穴と蚕種」展の開館時間は午前9時半~午後5時。火曜休館。観覧料は一般200円、大学・高校生100円。問い合わせは日本絹の里(電話027・360・6300)へ。