《絹の縁むすび 上州探訪》 長野県長野市、千曲市 「富岡日記」記した和田英の足跡 製糸技術広めた工女
- 掲載日
- 2011/05/26
六工社の繰糸器を復元した模型。富岡製糸場とは異なり、木材や陶器を多く使っていた=長野県立歴史館
上信越道長野インターチェンジ近くの長野市松代町。ここで生まれ、後に「富岡日記」を記して歴史に名を残した和田英(1857~1929年)は、17歳だった1873(明治6)年に官営富岡製糸場の工女になる。富岡でフランス式器械製糸の技術を学んだ後、郷里の民間製糸場「六工社」などで指導者として技術を広めた。
◎六工社で指導
殖産興業による近代化を進める明治政府は72年、器械製糸の模範工場として富岡製糸場を開設した。全国から士族の娘たちが工女として集められ、松代からは16人が富岡に向かった。
英は74年7月に帰郷。父で松代藩士だった横田数馬ら地元有力者が富岡を視察して造った国内初のフランス式蒸気器械製糸場、六工社や長野県製糸場などで指導にあたり、生糸の質を高めた。
廃藩置県で職を失った武士らによって造られた六工社は、50人繰りの蒸気式繰糸器が置かれた繰糸場や水車、工女部屋などを備えていた。「富岡日記」には六工社での初仕事を振り返り、手作りの繰糸器で糸がとれて感心した様子がつづられている。 現在は石垣の一部や動力水車用の水路、工場移転後に建てられた小屋が残るだけだが、六工社の錦絵「埴科(はにしな)郡西条邑六工製糸場之図」(78・6×227センチ、複製)、繰糸器の模型などが県立歴史館(千曲市屋代)に展示されている。
同館学芸員の林誠さんは「六工社は武士の授産施設としての側面が強く、工女も英ら武家の娘が多かった。この地域で器械製糸を導入する先駆的な役割を果たし、やがて繭生産量全国1位となった長野の近代化に貢献した」と説明する。
和田英の生家で国指定重要文化財の旧横田家住宅
◎武士住宅伝える
英の生家の旧横田家住宅(同市松代町松代)を訪ねた。表門をはじめ庭園を北と南に配した母屋、土蔵、菜園、池などが残っており、江戸末期の中級武士の住宅の特徴を今に伝えている。母屋の客間では「松代の近代化と横田家」と題するパネル展が6月1日まで開かれ、英や六工社について紹介している。
◎市博物館に預託
英は80年に六工社などを退職して和田家に嫁ぎ、製糸業から離れた。晩年に富岡製糸場での実習や六工社設立時を回想した「富岡日記」は、明治初期の器械製糸業の発展過程を知る貴重な資料となっている。
その富岡日記の原本が寄託されている市立博物館(同市小島田町)に立ち寄った。常設コーナーの一角で、日記(複製)と六工社を取り上げている。 「六工社の生糸の品質は高く、1904年に米国セントルイスで開かれた博覧会で最高賞に輝いた。和田英らが富岡製糸場で学んできた製糸技術が後につながったんです」と同館学芸員の原田和彦さん。長野県における養蚕製糸業の近代化を語る上で、英たち富岡製糸場の工女が残した功績は色あせない。
旧横田家住宅 江戸末期の松代藩の武家屋敷で国指定重要文化財。和田英の生家。
長野市松代町松代1434の1 電話026・278・2274
長野県立歴史館 近現代のコーナーに六工社の繰糸器の模型などを展示。月曜休館。一般300円。土・日曜、祝日は高校生以下無料。
千曲市屋代260の6 電話026・274・2000
長野市立博物館 和田英の「富岡日記」を寄託所蔵。一般300円。月曜休館。
長野市小島田町1414 電話026・284・9011
【シルクなう】特産物マイスターに認定 黄金・笹繭300キロ生産
和田英の写真や「富岡日記」を紹介する常設展示=長野市立博物館
「かつて中条地区は一面の桑畑で、養蚕をしていないのは数軒だった。それが現在の長野市内の養蚕農家は3軒だけ。製糸工場もなくなった」 50年近く養蚕を続け、5年前に日本特産農産物協会から繭では初の地域特産物マイスターに認定された堀内新也さん(71)=同市中条御山里=はしみじみと語る。 養蚕農家に生まれ、片倉工業の大宮工場で養蚕指導員をした後、郷里で1965年から本格的に養蚕を開始。このころ、片倉工業の松本製糸場などが閉鎖され、富岡工場(現富岡製糸場)までトラックで繭を運んだこともあったという。
最盛期には年6回、蚕を飼って生繭を4トン近く取った。現在は温度や湿度を自動管理する稚蚕飼育室など最新鋭の設備をそろえた蚕室で通常の繭のほか、黄金色や笹(ささ)色の繭を年間200~300キロ生産。シルクパウダー商品を開発する製薬会社や都内の染色作家らに出荷している。
かつては桑が足りなくなると群馬まで買いに行ったが、「群馬にももうない。自衛しないと」と山の斜面など約1ヘクタールで栽培する。「自分には養蚕しかない」。今年も30日に春蚕の掃き立てを行う。
黄金色の繭を手にする堀内さん