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製糸場の価値発信

透き通った歌声を富岡製糸場に響かせた坂本真綾さんのコンサート 森英恵さん 川口淳一郎さん
透き通った歌声を富岡製糸場に響かせた坂本真綾さんのコンサート 森英恵さん 川口淳一郎さん

富岡市の旧官営富岡製糸場・西繭倉庫前特設ステージで19日、世界遺産劇場が開かれ、歌手で声優の坂本真綾さんが場内に透き通った歌声を響かせた。東繭倉庫内では世界遺産大学が行われ、ファッションデザイナーの森英恵さんと宇宙航空研究開発機構教授で小惑星探査機「はやぶさ」プロジェクトマネジャーを務めた川口淳一郎さんが、「ファッションと技術の夢」を統一テーマに講演した。

■世界遺産劇場

◎坂本真綾さんコンサート 透んだ歌声で一体

坂本真綾さんのコンサートには、満席となる3千人が来場。木骨れんが造りの西繭倉庫をバックに、透んだ歌声を場内いっぱいに響かせた。

ヒット曲「プラチナ」でコンサートをスタートさせた坂本さんは、「前からこの世界遺産劇場で歌いたかった。きょうは夢がかなってうれしい」と喜びを語った。

雨のため1度中断したものの、20分ほどで再開した。新曲「おかえりなさい」や「マジックナンバー」「ポケットを空にして」など、予定通り計16曲を披露。来場者は手拍子やハミングなどで「マーヤ」との一体感を楽しんだ。

埼玉県深谷市から来場した木下めぐみさん(21)は「富岡製糸場の雰囲気も良くて気持ち良かった」と、文化遺産を舞台に行われたコンサートを満喫していた。

■世界遺産大学

◎絹とファッション 日本のルーツしっかり 森英恵さん

60年にわたってファッションの仕事をしてきた。最初は、結婚して自分の服や子供に着せるものを作りたいと思ってファッションスクールに通ったが、次第に人に着せたいと思うようになった。

生活様式の違い

戦後間もないころ、友人の紹介で新宿で洋服店を開き、日本映画の衣装を作った。当時は洋服専門だったが、洋服と日本の生活様式がぴったりこないことに気付いた。例えば、ちょっと短いスカートをはくと、おじぎをすると後ろから見えてしまう。

悩んで辞めようかと思った時に、主人と友達が、ヨーロッパの本場に行ってみたらどうかと助言してくれ、6週間ほどパリに滞在した。

当時のデザイナーは男性ばかりで、女性のデザイナーはココ・シャネルだけ。シャネルの洋服はお花を生けるみたいに美しく、その上、洋服より人間がきれいに見える。女が作るとこういうふうに違うのかと思った。

この「シャネルスーツ」というものを作りたいと、シャネルの店に行った。シャネルは、ブラウスは人間の体に一番近いもので着心地をよくしなければいけないこと、女のジャケットは男の背広をヒントに作ることにこだわっていて、女性用の洋服の基本を学んだ。  ニューヨークの大きなデパートに行った時、メード・イン・ジャパンのブラウスがたったの1ドルで販売されていた。わざわざ遠い国から運んできているのに、ショックを受けた。

素晴らしい文化

また、オペラ座でマダムバタフライを見た時は、蝶々夫人がこれが本当に日本の衣装かというものを着ていた。しかも畳の上を下げ駄たで歩いていた。冗談じゃない、と思った。日本には、着物という伝統的な素晴らしい文化があるのに。

帰国して3年間ぐらい日本の文化を学び、「日本人とは」というものを一生懸命勉強した。その中で、日本の着物文化を育んだ絹の大切さに気付いた。

そして、子供のころよく遊んだチョウチョをデザインした着物を作り、再びニューヨークに行って成功した。

今、しみじみ思うことは、やっぱり日本人としての伝統、ルーツというものをしっかり持っていなければいけないということ。絹は日本の伝統だと思うし、日本のルーツを考える上ですごい役割を果たしてきた。

かつてフランス人が来て、日本人と一緒に建てたこの富岡製糸場。主に絹を扱ってきたオートクチュールのデザイナーとして、ここで話ができることは素晴らしい。

養蚕業は盛んではなくなってきているけれど、シルクは日本独特のもの。富岡製糸場を契機に生まれた絹の織物をさらに磨き上げて世界に向けるようにすべき。そうすれば世界中で注目されると思う。

【略歴】
1977年から、パリ・オートクチュール組合に属する唯一の東洋人として活動。「東と西の融合」をテーマに、国内外で日本の絹の素晴らしさを表現してきた。東京女子大卒。島根県出身。

◎未知の夢―先端技術の苦闘と感動 閉塞感破る創造と革新 川口淳一郎さん

意気込み同じ

はやぶさ計画の始まりは、世界のトップに立ちたいという意気込みからだった。それは明治政府が近代化を目指して富岡製糸場を造った意気込みと同じだと思う。

宇宙先進国の米ソは火星や金星に探査機を送っていた。しかし、大きく丸い天体には高い圧力がかかり重いものは沈むため、表面の微粒子を持ち帰っても内部を知ることにはならない。そのため、浮力が働かない小惑星に焦点を当てた。

惑星「イトカワ」までは往復6億キロ。こんな無謀な宇宙飛行は世界のどこも考えなかった。はやぶさにイオンエンジンを搭載し、ロボットにして自分で判断させ、富岡市のIHIエアロスペース富岡事業所で開発されたカプセルに試料を入れて持ち帰るという技術はオリジナル。目的も手段もすべてがオリジナルだったことは誇りに思う。

イトカワは長さ540メートルあったが、着陸可能な場所は40メートルくらいしかなかった。指令を出しても届くのに千秒かかる。降下する速度の管理に少しでもミスがあれば着陸位置がずれてしまうので、それができたのは大きな成果だ。

2005年11月、はやぶさは2回目の着陸後、燃料漏れを起こして故障した。ガスが噴出し、姿勢を崩して太陽電池に光が当たらなくなって電力がなくなった。ここから前代未聞の救出劇が始まった。

太陽電池に光が当たっても、電源が入るのは受信機だけ。そこから指令を出して一つ一つの装置の電源のスイッチを入れていく。送信機の周波数を決める装置の電源も切れており、周波数が分からない。ありとあらゆる周波数に指令を送ってみる。一つも指令が届いていないのか、9割方届いているのか何も分からない。聞こえてくるのは宇宙空間の雑音だけ。手探りの状態が続いた。

あきらめない

技術だけでなく、メンバーの士気の低下も問題だった。部屋のポットを毎朝熱いお湯に入れ替え、あきらめないぞというメッセージを送り続けた。そして46日目。はやぶさの電波を受信した。夢かと思った。

コンセプトから25年、プロジェクト開始から15年、はやぶさが飛んでから7年かかった。技術より根性、意地と忍耐。意気込みとあきらめない心があったからこそ達成できた。

日本を包む閉塞感を打ち破る方法は、創造と革新。これまで日本は製造の国だったが、これからは創造していくことが大切。新しいアイデアを生み出せるような人材育成が必要だ。

今より少しでも高いところに上らなければ、水平線は見えて来ない。はやぶさが日本人の創造力の高さを示してくれた。特に未来を担う若い人は、果敢に挑戦することを忘れないでほしい。震災復興、日本復活―。みなさん、がんばろう。

【略歴】
宇宙工学者、工学博士。宇宙航空研究開発機構教授。火星探査機「のぞみ」などのミッションに携わり、小惑星探査機「はやぶさ」ではプロジェクトマネジャーを務めた。東大大学院修了。青森県出身。

富岡製糸場(富岡市) 田島弥平旧宅(伊勢崎市) 高山社跡(藤岡市) 荒船風穴(下仁田町)