《シルクカントリーin富岡製糸場》生糸の大量生産実現 富岡製糸場(富岡市富岡)
- 掲載日
- 2012/03/21
赤れんがが映える富岡製糸場の東繭倉庫
世界遺産候補「富岡製糸場と絹産業遺産群」の中核資産に位置付けられる旧官営富岡製糸場。生糸の大量生産を実現した養蚕・製糸の技術革新に加え、日本と世界の技術交流を担った近代化遺産として2014年の世界遺産登録を目指している。県世界遺産推進課の松浦利隆課長は「富岡製糸場は(民間払い下げ後も含めて)日本の製糸業で3回、模範工場の役割を果たした」とその価値を強調する。
最初は、明治政府が殖産興業を掲げてフランスから器械製糸や工場建築の技術を輸入し、1872(明治5)年に富岡製糸場を開設した時期。全国から集まった工女が製糸技術を学び、地方に伝えた模範製糸工場だった。その歴史を伝える木骨れんが造りの繰糸場(長さ140メートル)や繭倉庫(同104メートル)など国重要文化財の主要施設が、建設時に近い状態で残っている。
2回目は、民間払い下げ後の明治後期から大正期に製糸場を所有した原合名会社が、繭と生糸の大量生産システムを確立した時期。新型の多条繰糸機や繭乾燥機の導入に合わせて、高品質で均一な原料繭を確保するために養蚕教育機関の高山社や蚕種(蚕の卵)生産の田島家、蚕種を冷蔵した荒船風穴と協定を結んだ。
これにより同一品種の繭を供給する仕組みを構築。大量に生産された繭は乾燥させて繭倉庫に保管され、年間を通した生糸の生産が可能になった。松浦課長は「全国の製糸場、農家がこの生産体系を取り入れた」と意義を語る。この技術革新により、日本の生糸生産は1930年代に世界市場の80%を独占し、世界各地で絹の大衆化をもたらした。
3回目は戦後の片倉工業所有時代。高度成長により労働賃金が2~3倍に跳ね上がる中、世界最高水準の自動繰糸機を導入して生産コストを削減した。自動繰糸機は中国など海外にも輸出され、世界における生糸の大量生産に貢献した。富岡製糸場には、87年に操業停止した時の状態で自動繰糸機が保存されている。
シンポジウム「世界を変えた日本の技術革新」は24日午後1時から、富岡製糸場東繭倉庫で開かる。女優でエッセイストの星野知子さんが基調講演した後、富岡製糸場と絹産業遺産群の価値や世界遺産登録運動などについてパネリスト6人が討論する。