製糸場救った楫取 存続訴えた資料に脚光 顕彰板で紹介
- 掲載日
- 2012/03/25
明治政府が開設した官営富岡製糸場が一時閉場の危機に陥った1881年、初代群馬県令(知事)の楫取素彦(かとりもとひこ)(1829~1912年)が、官営製糸場の存続を強く国に訴えた資料があらためて注目されている。没後100年を記念して顕彰活動を進める県民有志は、功徳碑が建つ県庁近くの高浜公園に今夏までに設置する顕彰板にこの功績も含める計画。世界遺産登録に向けた準備が進む中、楫取の功績の再評価につながりそうだ。
資料は、顕彰に向けて有志が楫取と製糸場との関連を調べていたところ、富岡製糸場総合研究センターの今井幹夫所長(77)から伝えられた。今井さん自ら編集に携わり、富岡市教委が35年前に発行した「富岡製糸場誌」に、楫取の国への意見書が載っており、出典は国立公文書館が所蔵する明治14年の公文録という。今井さんは「請願がなければ閉場してしまい、世界遺産登録もなかったかもしれない」と意義を強調する。
明治維新政府の最高官庁「太政官」は1880年11月、全国の官営工場の払い下げ案を示したが、富岡製糸場は規模が大き過ぎて民間資本の希望がなく、翌年には「請願人がいない場合は閉場」する方針が決まった。このため、楫取は富岡製糸場が全国製糸工場の模範となったことや欧米にも名声が広まっていることを指摘し「政府がこれ(富岡製糸場)を廃滅すれば工業が日新の今日、各国に対してすこぶる恥。(中略)しばらく官設に」などと記した意見書を農商務省へ81年11月に提出。政府は翌年には官営製糸場の継続を決め、93年に三井家が所有するまで官営が続いた。
山口県出身の楫取は製糸場開設から4年後の1876年、第2次群馬県の初代県令に就任。政府から養蚕県群馬の近代化を託され、生糸が最大の輸出品だった時代に、県令として8年間、養蚕、製糸業の発展と教育振興に力を注いだ。
県立歴史博物館の学芸員、手島仁さん(52)は「時代背景や内容をさらに検討する必要があるが、製糸場存続における楫取の役割を示す貴重な資料」と話している。