《絹の縁むすび 上州探訪》埼玉県深谷市 富岡製糸場生んだ縁 渋沢栄一、尾高惇忠、韮塚直次郎を輩出
- 掲載日
- 2012/03/27
「養蚕は日本古来の伝統文化」と話す福島さん
昭和まで繭と生糸の集散地として栄えた埼玉県深谷市。近代日本経済の父と呼ばれ、旧官営富岡製糸場の生みの親として知られる渋沢栄一、製糸場初代所長の尾高惇忠(じゅんちゅう)、製糸場のれんが製造を指揮した韮塚直次郎らを輩出した。傑人たちと本県の縁を追った。
利根川の南に位置する伊勢崎市境島村地区から、さらに南へ約2キロ。深谷市血洗島は、渋沢栄一(1840~1931年)の生地だ。この場所で生まれ、晩年にたびたび過ごした旧渋沢邸「中の家(なかんち)」が現存し、公開されている。この地区に住む一族の中心にあったことから、この名がついたという。
「煙出し」と呼ばれる天窓がある「中の家」の母屋
◎まつりに帰郷
正門をくぐり、中の家の母屋を見上げると、室温を調整する「煙出し」と呼ばれる天窓が目につく。養蚕農家に特有のものだ。土蔵には、蚕紙や蔟(まぶし)が収蔵されている。管理人の芹田洋昭さんは「(栄一は)事業家として多忙だったが村まつりに参加する際などに帰郷し、この家で過ごしていた」と教えてくれた。
同市下手計にある渋沢栄一記念館に向かった。一角に富岡製糸場のコーナーが設けられている。設立時の製糸場を描いた錦絵、初代所長の尾高惇忠(1830~1901年)の肖像画をはじめ、惇忠が詠んだ漢詩「富岡製糸場建築竣功」と訳文もあった。「さあ見てくれ、導入された新式の機能の優れた機器を。これが人の暮らしを豊かにするという点では、今までの賢者のやり方よりも勝っている」―。技術の粋を集めた製糸場を誇る気持ちが伝わってくる。
細部まで描かれている富岡製糸場図大絵馬
◎反対住民を説得
惇忠には、製糸場建設に必要な木材を妙義山から切り出す際、「すべての責任を取る」と反対住民を説得した逸話も伝えられている。館長の吉岡二朗さんは「惇忠は肝の据わった人。栄一、惇忠、直次郎の3人がそろわなければ、短期間で完成しなかった」と分析する。
車を走らせると、そびえ立つ煙突が目に入った。同市上敷免の「日本煉瓦(れんが)製造株式会社旧煉瓦製造施設」(国重要文化財)だ。1887(明治20)年に設立され、ドイツ人技師が考案した窯、事務所、変電所などが残っている。ここで造られたれんがは、信州から横浜港に生糸を運ぶため建設された碓氷峠鉄道施設にも使われた。
富岡製糸場の関連資料も展示されている渋沢栄一記念館
◎完成記念し絵馬
最後に富岡製糸場図大絵馬(縦107センチ、横178・5センチ)が飾られている田谷自治会館(同市田谷)を訪ねた。1880(明治13)年、れんがの製造責任者だった韮塚直次郎(1823~1906年)が、製糸場完成を感謝して同館近くの神社に奉納したものだという。細部まで描かれており、「東繭置所」のキーストーンに刻まれた創業年「明治五年」の文字も読み取れる。
絵馬の調査をきっかけに、富岡製糸場世界遺産伝道師協会に入会した神社の奉賛会役員、鹿島高光さんが力を込めた。「製糸場を介して深谷と富岡は深いつながりがある。深谷が生んだ3人に光を当てるためにも、富岡製糸場の世界遺産登録を願っている」。
(「絹の縁むすび」は今回で終わります)
国重要文化財「日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設」の煙突
◎シルクなう 夫婦で繭生産年500キロ 伝統の文化 後世に
Aふかや養蚕部会長を務める福島幹雄さん(70)=深谷市田中=は、妻の文代さん(68)と養蚕に励んでいる。
高山社(藤岡市)を設立した高山長五郎の実弟、木村九蔵が組織した競進社が前身の旧児玉農業高校(本庄市)に通い、養蚕を学んだ。
福島さんが住む旧川本町の生産のピークは昭和50年代。年に1トン以上繭を出荷する農家でつくる「1t会」に50戸余りが所属していた。福島さんも最盛期には約1300キロを出荷し、同町産業文化祭に出品した繭で県知事賞を受賞したこともある。
現在、JAふかや管内の養蚕農家は11戸。年々減少しており、「出荷量を競う相手が少なくなり、張り合いがなくなってしまった」と肩を落とす。 福島さんの昨年の出荷量は約500キロ。「養蚕は皇室でも古くから取り組んでおり、日本古来の伝統文化」とした上で「永年受け継がれてきたこの文化を後世に伝えたい」と元気に話している。