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「富岡製糸場と絹産業遺産群」Web

《毛の国よ 第3部・明日紡ぐ繭(1)》絹の灯絶やさない 存亡かけ農家・業者連携 4年で58団体 世界遺産目指す絹文化 生きた現場残したい

県内外の呉服店の店主が集まった植樹会。500本の桑の苗が植えられた=3月3日、安中市
県内外の呉服店の店主が集まった植樹会。500本の桑の苗が植えられた=3月3日、安中市

「大阪近郊には桑畑も養蚕農家もなくなった。群馬には頑張ってもらわんと」  呉服店主は桑の苗を植えながら、植樹会に参加した理由を説明した。

安中市松井田町の畑に今月はじめ、30人ほどの男女が集まった。呉服地を製造販売する業者と農家らでつくる日本蚕糸絹業開発協同組合(日本蚕糸=高崎市)が主催。「国産シルクを守ろう」の呼び掛けに、岩手や兵庫の呉服店も応じた。

「2日かかる作業が、協力し合えればあっという間だ」

畑を提供した養蚕農家、上原高好(65)は何げない言葉に、日本蚕糸業の存亡をかけて始まった業者連携への、期待と不安をにじませた。

◎国の「手切れ金」

外国産生糸の流入と着物需要の落ち込みで壊滅の危機にある国内蚕糸業。国産繭の4割を生産する本県でも、戦後のピーク(1958年)に8万4千軒あった養蚕農家は昨年300軒を割り込み、今年は230軒程度にとどまる見通しだ。

国は繭代を補填(ほてん)して農家の手取りを確保してきたが、その財源を負担してきた織物業者から悲鳴が上がり、2008年に最後の手段に打って出た。

一つは繭代補填の打ち切り。もう一つは農家と製糸、織物、小売りなどの関係業者が、地域や製品の種類ごとにグループをつくり、製品が売れたらグループで利益を分け合う仕組みの導入だ。国はこの仕組みを普及させるため、グループをつくった年から3年間限定の助成金を設けた。

業者は助成金を国の「手切れ金」と受け止めた。反対の声が上がる一方、「座して蚕糸業の壊滅を待てない」と腹を決めた織物業者などが呼び掛け人となり、この4年間で58のグループが発足した。

◎3年前の繭残る

最終製品が完売して初めて成り立つこの仕組みに、シルクの内外価格差と需要減が立ちはだかる。

碓氷製糸農業協同組合(安中市)の生繭置き場。農閑期の3月は荷受けがないため空っぽのはずだが、乾燥済みの繭が詰まった袋が山積みされている。製品を作っても売れるめどが立たないため、糸に加工されていない繭。生繭換算で14トン分、3年前の繭もある。

所有者は植樹会を主催した日本蚕糸。昨年は県産繭を23トン買ったが、今年は「体力の続く範囲で続けたい」(小林幸夫理事長)と8・5トンに減らし、残りは碓氷製糸が買い取る方向で調整している。

富岡市が08年に立ち上げた提携グループ、富岡シルクブランド協議会も2千万円分を超す在庫を抱え、助成金がなくなった昨年は市から400万円の支援を受けて繭代に充てた。

富岡製糸場の繰糸場を視察する文化庁の近藤長官(手前左から2人目)=3月7日
富岡製糸場の繰糸場を視察する文化庁の近藤長官(手前左から2人目)=3月7日

◎「売れ残り出ない」

快調なスタートを切ったグループもある。

「昨年は注文が多く、3分の1は対応できなかった」。全国の工芸作家に生糸を販売する絹の会(前橋市)の会長、西尾仁志(63)は残念がる。絹の会の糸は生繭から引く「生繰り糸」で染めやすく光沢に富む。

「ものづくりにこだわる人はいい糸を求める」と西尾。助成がなくなる2年後には生糸の価格が倍になるが、「売れ残りは出ない」と断言する。これを裏付けるように、京友禅の老舗「千總(ちそう)」は「純国産製品の割合を5割から7割に上げたい」と意欲を見せる。

ただ、絹の会の契約農家は2軒だけで繭量は900キロ。千總のように高級呉服のブランドが浸透したメーカーもごく一部だ。

提携グループの自立を促すため、助成金は2年目から繭1キロ当たり2千円から1500円に引き下げられる。新年度は全体の8割を超える48グループの助成金が減る。

提携グループ事業を国から委託される大日本蚕糸会の会頭、高木賢(まさる)(68)は身構える。「頑張れば500円の格差を乗り越えられるのか、駄目なのか。今年は事業の成否を占う勝負の年になる」

「外気温16度、吹き出し口マイナス1度」。下仁田町の標高840メートルの山中にある世界遺産候補、荒船風穴。明治から昭和初期、岩間から吹き出す冷気を利用し、全国の農家の蚕種(蚕の卵)を冷蔵保管した施設だ。町の職員が温度を測り、古代遺構のような石積みの囲いの下部から今も冷気が吹き出していることを説明すると、文化庁長官、近藤誠一(66)は雪に覆われた風穴の内部を、身を乗り出してのぞき込んだ。

世界遺産登録を目指す「富岡製糸場と絹産業遺産群」。国内手続きは県の推薦書作成が進み、国の審議に移る段階となり、近藤は今月上旬、遺産群を構成する全4資産を視察した。

養蚕の教育機関だった藤岡市の高山社跡で、火鉢で暖めた空気を対流させて温・湿度を管理した蚕室を見学した近藤。独り言のように話したという。「ここで養蚕を復活できたら面白い」

◎世界最高水準

蚕糸業が生きていてこそ世界遺産の意味がある―。絹産業遺産群の登録が現実味を帯びるにつれ、登録運動に関わる関係者の声は高まっている。 日本近代化の原動力となった富岡製糸場。心臓部の繰糸場には自動繰糸機が保存されているが、25年前の操業停止から止まったまま。場内はひっそりとし、中央付近に置かれたモニターに繰り返し映し出される動画だけが、それが世界最高水準だったことをしのばせる。

動画が撮影されたのは、富岡製糸場と同型の自動繰糸機で今も糸をひく碓氷製糸(安中市)。絹産業遺産群が世界遺産暫定リスト入りした2007年から見学者が増加、本年度は約1800人が来場した。

繰糸機は480本の糸を同時にひき、数十ミクロンの糸の太さの変化を感知して繭を追加する。見学者はその様子に目を見張り、それが戦後間もなく日本人が開発したと聞き、また驚く。

「繭は同じ品種でも飼育技術や土地柄で少しずつ糸の太さ長さが違う」。元県繭検定所長で富岡製糸場の自動繰糸機を6年前に調査した高橋栄志(よしゆき)(78)=前橋市=は、製糸の難しさとそれを克服した日本人の技術力の高さを強調する。

◎女性が代々

資源を持たない日本にとって蚕糸業は唯一、外貨を稼げる産業だった。蚕糸業で日本は大国の仲間入りを果たした。それを支えたのは養蚕農家であり、製糸場の工女であり、生糸の大量生産を可能にした技術者だった。 「そうした人たちの営みこそが世界遺産の価値」。県世界遺産推進課長、松浦利隆(55)は語る。「日本の高い技術力の原点であり、大地に根を張った絹文化を世界に理解してもらうためにも、生きた現場を残してほしい」

繭を煮ながら歯車付きの木製道具で糸をひく上州座繰り。江戸中期から続くという繰糸方法だ。富岡製糸場ができた後も、県内の農村では座繰りが主役だった。女性たちは座繰りで糸をひき、家を支えた。

高崎市新町の座繰り染織家、中野紘子(34)は碓氷製糸に02年から1年半ほど勤め、自動繰糸機や座繰りの技術を学んだ。独立後、富岡産繭を仕入れ、座繰りした糸を草木染し、ショールを手織りしている。

「昔の女性は農作業や家事の合間に座繰り糸をひき、夜なべして機織りした」と中野。「群馬の女性が受け継いできた技術や文化、果たしてきた役割の大きさを伝えたい」。座繰りを続ける理由という。

(敬称略)

第3部は蚕糸絹業の現状やサバイバル戦略に迫りながら、日本農業が国際化する市場を生き抜くヒントを探ります。

富岡製糸場(富岡市) 田島弥平旧宅(伊勢崎市) 高山社跡(藤岡市) 荒船風穴(下仁田町)