《ふるさと人物帳(21)》庭屋静太郎(下仁田) 私財投じ荒船風穴建設 冷蔵し蚕種 全国へ
- 掲載日
- 2012/07/03
荒船風穴を運営した春秋館が設置された庭屋静太郎の自宅
明治後期から昭和初期にかけて蚕種を貯蔵した下仁田町南野牧の国指定史跡「荒船風穴」。建設に取り組んだのは養蚕農家でつくる組合製糸・下仁田社の取締役で県議も務めていた庭屋静太郎(せいたろう)だ。風穴から7キロほど離れた自宅には春秋館(しゅんじゅうかん)という事務所を設置して全国規模で蚕種冷蔵の事業を展開、日本の生糸輸出の増大に貢献した。
旧官営富岡製糸場が創業した明治初期の養蚕は、蚕種が産み付けられた紙を天井などにつるして保存し、春に日当たりのよい部屋でふ化させていたため年1回だった。そんな中、静太郎の養子の千寿(せんじゅ)が、山あいから吹き出す冷風に着目。静太郎が現在の数千万円に相当する私財5千円を投じ、1905年に1号風穴を起工し、年複数回の養蚕につながっていった。
建設は民間によるものだったが、県などの積極的な支援もあった。共愛学園前橋国際大客員教授で県蚕糸業史に詳しい宮崎俊弥さん(66)は「県議を務め、高山社にも深くかかわって幅広いネットワークを持っていた静太郎だったからこそ建設が円滑に進んだ」と分析する。
全国各地の風穴は小規模な個人経営がほとんどだったが、静太郎は春秋館に貯蔵部、製造部、委託販売部を設置。荒船風穴管理棟と春秋館を私設電話で結び、上野鉄道下仁田駅と高崎駅に荷受所を設けて全国からの依頼に対応したほか、高山社の分教場を春秋館に併設して教育にも尽力した。 『下仁田町史』は、蚕業だけでなく「利を忘れ慾(よく)を棄(す)てて家を思わず身を省みず一身を献(ささ)げて村治・村政に盡粋(じんすい)せる」と、16年務めた村長の功績も大きかったと伝えている。
静太郎の孫を叔母に持ち、春秋館を管理している今井康雄さん(64)は「将来を担う子どもたちのために多額の基金を出して西牧小学校を建てた」と教育熱心だった静太郎の人柄にも触れ「温厚で人望があったと聞いている」と話した。葬儀は西牧小の校庭で行われ、敷地内に入りきれなかった人々が長い列をつくったという。