上毛新聞社「21世紀のシルクカントリー群馬」キャンペーン

上毛新聞社Presents
「富岡製糸場と絹産業遺産群」Web

シルクカントリーin藤岡 養蚕普及に情熱 研究に懸けた人々 長五郎の夢 大きく開花  

高山社を考える会が昨年5月に初めて藤岡市内で開いた養蚕資料展
高山社を考える会が昨年5月に初めて藤岡市内で開いた養蚕資料展

高山社を創設したのは、1830(文政13)年に緑野郡高山村(現藤岡市高山)の旧家に生まれた高山長五郎だ。

当時は白いカビが付着した蚕が硬くなって死んでしまう白彊(はっきょう)病が流行。長五郎は蚕を観察して飼育日誌をつけ、明治初めごろに清温育を考え出したとされている。

指導を求める農家が後を絶たなかったことから、73(明治6)年に養蚕組合の高山組を自宅につくり、近隣の農家を指導した。

養蚕技術の改良に取り組み続け、清温育の技法を確立すると、84年には高山組を改称して養蚕改良高山社を創設。社長として伝習所や事務所を緑野郡藤岡町(現藤岡市藤岡)に移転することを計画したが、事業の発展を目前に控えながら、86年に56歳で亡くなった。

ぐんま絹遺産に登録された藤岡市藤岡の諏訪神社の手水石と常夜燈
ぐんま絹遺産に登録された藤岡市藤岡の諏訪神社の手水石と常夜燈

長五郎が副社長の町田菊次郎に夢を託した遺言が今も伝わる。遺言は清温育の研究をさらに進めて全国に普及させることを訴えながら、「国利民福(国家の利益と民衆の幸福)を増進すべし」と強く求めている。

高山社の2代目社長となった菊次郎は、50年に緑野郡本郷村(現藤岡市本郷)で生まれた。75年に長五郎に師事してからわずか2年で、全国の巡回指導に当たったほどの俊才だったという。

積極的な行動力と優れた判断力を持ち、1901年に甲種高山社蚕業学校を創設して初代校長に就任。農学博士らを招いて養蚕指導者の育成に力を注いだ。

授業料だけでは足りない蚕業学校運営経費を捻出しようと、授業員の派遣料の一部を派遣先の自治体から徴収したり、農家に養蚕具を販売するなどして充てたという。

子孫の町田英子さん宅には菊次郎が著した書物や分教場の呼び鈴が残る
子孫の町田英子さん宅には菊次郎が著した書物や分教場の呼び鈴が残る
養蚕技術の普及のために自身の生家も分教場とした。敷地内に関連施設が所狭しと並ぶ写真が残されており、当時の活況がうかがえる。

菊次郎のひ孫の町田英子さんは現在も藤岡市本郷にある生家に住む。今から十数年前にひどい雨漏りがあった際も、「先祖が建ててくれた大事なものだから」と清温育のシンボルである天窓を取り壊さず、補修工事で対応した。菊次郎の著作をはじめとした高山社関係の史料も大切に保管している。

長五郎の遺志を受け継いだ人物には、実弟の木村九蔵もいる。九蔵は独自の養蚕法「一派温暖育法」をあみ出し、1884年に児玉郡児玉町(現埼玉県本庄市)に競進社を設立。94年に建設された模範蚕室が現存している。

諏訪神社境内に並んで建つ「町田菊次郎頌徳碑」(手前)と「高山長五郎功徳碑」
諏訪神社境内に並んで建つ「町田菊次郎頌徳碑」(手前)と「高山長五郎功徳碑」

◎宮神輿や常夜燈 ぐんま絹遺産 新たに8件

県が登録を進めている「ぐんま絹遺産」。昨年11月の3次登録では、養蚕や織物関係の建物など20件のうち、半数近い8件が藤岡市内の遺産で占められた。

8件は高山社跡に関連した石碑や墓、建物など。江戸時代に絹市で栄えた藤岡とつながりがあった呉服問屋の三井越後屋から奉納された諏訪神社(同市藤岡)の宮神輿(みこし)や常夜燈(とう)、手水(ちょうず)石も含まれている。

1次、2次登録段階では高山社跡の1件にとどまっていただけに、市企画課の担当者は「高山社跡だけでなく、新たに登録された8件の絹遺産を見学しようと市内を巡ってくれる人も出てくるのではないか」と期待する。

一方、高山社跡の世界遺産登録を見据え、市民運動も活発化。顕彰団体の高山社を考える会(小坂裕一郎会長)は3月にも研修会を開き、ボランティア解説員(現在28人)の倍増を目指す。

増員は、高山社跡が一見すると普通の農家と変わりがなく、歴史的な価値が分かりにくいことが背景にある。小坂会長は「個人より国全体の利益を考えた明治時代の人々の思いを現代の人は学ぶべきだ」と話し、価値を丁寧に訴えていく考え。

世界遺産登録の機運を高めるため、5月には市内で養蚕資料展を計画している。

富岡製糸場(富岡市) 田島弥平旧宅(伊勢崎市) 高山社跡(藤岡市) 荒船風穴(下仁田町)