《シルクカントリーin藤岡》基調講演 江戸文化と絹 ~その歴史をふまえて 技術の集積 上州で結実 法政大教授 田中優子さん
- 掲載日
- 2013/02/11
スライドを映しながら講演する田中優子さ
歴史が始まって以来、絹はずっと日本にあった。江戸時代に生糸や絹織物は国産もあったが、多くは中国から輸入していた。日本をはじめ世界は、品質の良かった中国を目指していた。
日本は天然繭を使うことから始め、次第に国産を作っていった。8世紀初め、関西にいた大陸系の技術者たちがまとまって関東に流れてきて定着し、絹織物を始めたといわれている。けれども、いいものは中国という時代は続き、日本は輸入しながら国内生産を少しずつ増やしていった。画期的な技術革新があったのは江戸時代になってからだ。
西陣をはじめ、全国各地の農村で女性のいい織り手が増えていった。それによって基本的に織物は輸入しないで済むようになった。ところが、生糸については江戸時代になっても中国の技術に追いつけなかった。それでも、徐々に国内で質のいいものを作っていった。
富岡製糸場、高山社などは近代の技術革新の要だ。素晴らしい産業遺産としてとらえることができるが、いきなり工場ができてゼロから出発した訳ではない。古代からの技術の積み重ねと、江戸時代の飛躍の上に富岡製糸場がある。
1780年代になると、着物は生糸の段階からすべて国内で作っており、素晴らしいものがたくさんある。
ペリーが来航して日本が開国すると、明治政府は輸入するために、売るものが必要になった。江戸時代に少しずつ技術を高め、中国の技術に追いついていた生糸も売れるものになっていた。
高山社はその中で大事な役割を果たした。ヨーロッパは全土で蚕の病気が広がり、かなり生産が落ち込んでいたため、日本の生糸が必要になった。病気を防ぐには湿度と温度の管理などが重要だが、高山社は指導的な立場になってけん引していた。これによって生糸を輸出し続けることができ、現金収入を生み、別の物をヨーロッパから買うことができた。日本にとってこれが産業革命だった。
近代の産業遺産として評価すると、富岡製糸場や高山社など4資産も世界遺産になることは当然。上州が江戸時代以前から少しずつ地道に作り上げた歴史の結果なのだと受け止めてほしい。
近代の日本は植民地政策など拡大主義に入った。産業革命の結果、日清、日露、太平洋といった戦争の道を歩み、それは最終的に科学技術を中心に今日の原子力問題までつながっている。
富岡製糸場は貴重な近代化遺産だが、負の側面を持っていることも知っておいてほしい。
たなか・ゆうこ 1952年、横浜市生まれ。法政大大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。文学修士。法政大社会学部メディア社会学科教授。同大国際日本学インスティテュート(大学院)教授。