《シルクカントリーin藤岡》世界遺産が拓く藤岡の輝く未来 「みんなで豊かに」高山社の心後世に
- 掲載日
- 2013/02/11
- 地域学び世界知る
- 田中さん
- 学校で「高山社学」
- 新井さん
- 長五郎の精神発信
- 小坂さん
- 養蚕教育を産業化
- 松浦さん
シンポジウムの話に聞き入る人たち
シンポジウム「世界遺産が拓(ひら)く藤岡の輝く未来」では、法政大教授の田中優子さんが「江戸文化と絹~その歴史をふまえて」と題して講演。続くパネルディスカッションでは、4人のパネリストが近代的な養蚕法を広めた高山社の価値の伝え方などについて意見交換した。
内山充・上毛新聞社編集主幹
―まずシンポジウムの会場となった藤岡市と絹の関わりについて聞きたい。
松浦 会場に展示された諏訪神社宮神輿(みこし)が、なぜここにあるのかを説明したい。江戸時代の藤岡では絹市が頻繁に開かれ、絹の布が売られた。西毛地域一帯の農家が養蚕で繭を作り、糸にして織り、藤岡に持ってきた。もしくは商人が農家を回り買い付けていた。17世紀の記録では、2千両、6千疋(ひき)(1万2千反)の絹が藤岡で取引された。
絹市が開かれた藤岡に出先の店を置いたのが三井越後屋。そのほか、競合する多くの呉服商も藤岡に入った。
18世紀半ばの絹市では、1年で5万疋の絹が取引された。そのほかの絹市では高崎で3万疋、富岡2万疋が取引された。この時代、本県でいかに絹生産が盛んだったのかが分かる。中でも藤岡は交通の便がよく、各地の市に買い付けに行く商人の拠点になっていた。月12回の絹市が開かれたのは、藤岡と桐生だけ。こうした理由から、藤岡でもうけた三井越後屋が、感謝を込めて神輿を寄贈した。
江戸時代には栄えた藤岡だが、明治に入ってからは振るわなかった。絹の布が赤みを帯びていたことや、手仕事による重さにばらつきがあったことも影響し、明治期の工業生産の中では生き残れなかった。大正に入ってからは、生糸の生産教育(養蚕教育)が盛んになった。
新井藤岡市長
―養蚕との関わりについて聞きたい。
新井 私の祖父は高山社本科の卒業で、養蚕と製糸の会社を始めた。自宅は1階から3階まであり、2、3階は養蚕のために使用していた。私が生まれた1953(昭和28)年では、1キログラムの繭の価格が415円。当時の農家では、1年間で平均600キログラムを収穫し、価格は約25万円。現在の価格で1千万円に上る。80(同55)年と比較すると1キログラム2257円。平均5600キログラムを収穫し、1200万円以上の収入になる。そのほか、地域には繭や生糸に関連した仕事もあり、大きな経済効果があったと想像できる
小坂 親類宅で養蚕をしていたほか、子どものころから高山社の関係者が自宅に訪れた。2004年に高山社についてのシンポジウムを開催した。高山長五郎が一番に考えたことは繭の運送。いかに繭を横浜に届け、海外に送るかだった。
富岡製糸場と絹産業遺産群が、世界遺産登録された場合の価値を考えてほしい。高山社は心の世界遺産。それを失うことは藤岡市民、群馬県民、日本国民の損失になりかねない。
松浦利隆さん
田中 これまでの話を聞き、皆さんの養蚕の記憶が生活の中にあることが分かった。こうした記憶を語り継ぐことが大切になる。蚕に触ったことがある経験などは、言葉では伝えづらいが、今しか伝えられないこと。土地の記憶は大切で、なぜなら現代のようなグローバリズムでは、食べ物でも洋服でもみんなが同じ物といったように画一化している。土地の固有性や個性は、歴史の中にこそあると言える。その土地が風土とともに、どのような歴史を歩んできたかが、これからの子どもたちの誇りの核になるはず。
世界の先進国の産業革命は、その土地の伝統技術で起こったわけではない。イギリスの産業革命は木綿や蒸気機関から始まったが、従来、イギリスにはそのような伝統はなかった。土地と風土から生まれた物は大切であり、その記憶が残っている今だからこそ、地域で記憶をとどめていく方法が必要だ。
田中裕子さん
―土地や地域の大切な記憶をとどめるには教育が重要になってくる。高山社を世界遺産としてどのように位置付けるか。
松浦 世界遺産登録の推薦については、1月31日に国が認めた上で、パリのユネスコに提出された。推薦書の控えが今月15日から県庁で公開される。
推薦書では、単なる近代技術だけが、日本に産業革命をもたらしたのではないということを示したかった。製糸場だけでも世界遺産になるかもしれないし、その方が楽だったかもしれない。しかし、それでは日本の絹の大量生産は、ヨーロッパ人が行ったものを、日本人がヨコのものをタテにしただけだと思われてしまう。それは全く違う。日本人が独自に開発した技術で、ここまで 成し遂げたことを示す 必要があった。
絹の大量生産には繭の大量生産が必要。養蚕は難しい仕事であり、失敗して蚕が全滅することもある。しかし、長五郎が開発した「清温育」や、荒船風穴によって安定した繭の生産が可能になった。そして大量の繭を工場で処理できるように、富岡製糸場がフランスの設備を新しい日本の技術に変え、その技術を惜しげもなく中国やブラジルに伝えた。これは日本人の成し遂げた役割、在来技術の成し遂げた役割だと言える。これらを伝えられなければ、日本の近代化の本当の謎は分からないとの強い思いがあった。
高山社の場合、養蚕方法を開発しただけでなく学校で教え、指導を受けた人が、また別の人に教える仕事を作り上げた。こうしたフランチャイズ方式は非常に面白い。教育を一つの産業に仕立てるという伝統が藤岡にはある。
小坂裕一郎さん
―優れた先人の功績を知らない人もまだ多い。今後、どのように訴えていくのか。
新井 一見、ごく普通の農家に見える高山社だが、この中に計り知れないほど大きな文化が育っていた。世界遺産候補としての価値を見学者だけでなく、地元の子どもたちにも伝えていきたい。藤岡にある財産として、地元に誇りが持てるようにするためだ。「藤岡とはどんな街か」という問いに、市民がはっきりと答え、伝えられるような活動にする必要がある。
小坂 一番大事なのは、市民一人一人が高山社について考えるということだ。それは世界遺産候補としての価値の根源にある精神を理解することでもある。長五郎が持ち続けた「みんなで豊かになる」という心を広めていくことが、会としての最重要のテーマとなる。世界遺産登録がゴールではない。登録されれば、さらに多くの人が訪れる。そこが新たな第一歩となる。
アトラクションとして行われた「まゆダーマンの養蚕改良高山社」の紙芝居
―「みんなで豊かになる」という長五郎の考え方は、現代でいう公の精神といえる。
田中 長五郎のように江戸時代に生まれた人は、自分の故郷を大事にすることを最優先に考えた。高山社が教育機関という点で言えば、幕末に私塾が次々と現れた。そこには自分の思想を弟子たちに伝え、世の中を変えるという明確な目的がある。長五郎にも同じような考えがあったのではないか。
長五郎や私塾の時代は、生きていくための教育だった。だが、学校などで地域を学ぶことに反対という人もいるだろう。日ごろから学生を見ていると、日本や故郷のことを知らない学生は伸びない。自らの世界を広げる具体的な手がかりがないからだ。そのため、知識が不安定になり、使えない知識となることさえある。
「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、世界や日本、地域の歴史がすべてつながっている。単に知識として覚えるだけでなく、ともに考えることで世界を知ることができる。そういう伝え方もできる可能性を秘めている。
「世界遺産が拓く藤岡の輝く未来」をテーマに行われたパネルディスカッション
―世界遺産登録に向けて、どのように活動を展開していくのか。
小坂 長五郎は56歳で亡くなるとき、「国を富まし、民を幸福にせよ」という遺言を町田菊次郎に残した。独自に開発した技術は、そう簡単に人に教えないのが普通だろう。だが、長五郎の遺志を継いだ菊次郎は学校という形で技術を伝えた。「みんなで豊かになる」という長五郎の心とともに、それを実践した菊次郎も立派だ。
その心こそ、今の時代に一番必要なことではないか。こうした気持ちを忘れている人も多い。その精神を地域や群馬、日本はもとより世界に発信したい。世界遺産登録後にこの地を 訪れた人に、その心を 伝えていきたい。
新井 三井越後屋から藤岡の諏訪神社に奉納された宮神輿をことし春、市民のみなさんが東京・日本橋で担ぐ。それに向けて、市民が一つになろうとしている。このエネルギーがあれば、神輿担ぎも成功は間違いないだろうし、「みんなで豊かになる」の精神を広めるという大きな目標にも進んでいける。新年度からは市内の小中学校で「高山社学」を教える 取り組みが始まる。子どもや地域の将来を考えると、とても大きな財産を 得ようとしている。みなさんの力の結集が必要だ。
▼パネリスト
- 法政大教授
- 田中 優子さん
- 藤岡市長
- 新井 利明さん
- 高山社を考える会長
- 小坂裕一郎さん
- 県世界遺産推進課長
- 松浦 利隆さん
▼コーディネーター
- 内山充・上毛新聞社編集主幹