上毛新聞社「21世紀のシルクカントリー群馬」キャンペーン

上毛新聞社Presents
「富岡製糸場と絹産業遺産群」Web

生糸の道 変遷たどる 横浜港へ水運、鉄道 日本絹の里 来月まで特別展

洋式束装法「ねじり造り」で束ねた生糸。江戸期の「提げ糸造り」よりもコンパクトになった
洋式束装法「ねじり造り」で束ねた生糸。江戸期の「提げ糸造り」よりもコンパクトになった

幕末の横浜開港で盛んになった生糸貿易と上州生糸に焦点を当てた特別展「世界につながる日本のシルクロード―群馬のシルクと横浜港」が12月9日まで、県立日本絹の里(高崎市)で開かれている。世界文化遺産候補の田島弥平旧宅(伊勢崎市)を建てた弥平(1822~98年)が明治初期に輸出用の蚕の卵(蚕種)を横浜に運んだ際の日記2点など165点を通して、江戸期の水運やその後の鉄道など多様な絹の道を紹介している。

弥平が71(明治4)年7月に書きとめた「横浜旅中日記」は、島村周辺から集めた蚕種28箱を運んだことを記録。利根川を舟で下り、栗橋(埼玉)に立ち寄って荷物の数を確認したことを記している。

絹の里の上野邦彦次長によると、日記から島村の蚕種は前島(太田)、栗橋、関宿(千葉)を経て利根川、江戸川を下り、東京から横浜までは人力車で運んでいたことが分かるという。  また、70年8月の「横浜日記」には、道中のほか横浜での外国商人との蚕種取引量などが書かれている。

59(安政6)年の横浜開港後、前橋藩が平塚河岸(伊勢崎)から深川(東京)まで生糸の輸送方法を記した書類も紹介。84年に鉄道(高崎線)が開通するまで、蚕種や生糸の輸送の主流は水運だった。

田島弥平が蚕種を横浜に運んだ時の日記(左)と、富岡製糸場が出した輸出生糸の横浜への護送出張命令
田島弥平が蚕種を横浜に運んだ時の日記(左)と、富岡製糸場が出した輸出生糸の横浜への護送出張命令

官営時代の83年に富岡製糸場が、横浜への生糸輸送担当者に出した護送出張命令書も展示されている。富岡製糸場総合研究センターの今井幹夫所長は「製糸場の生糸は水運で運ばれたと想定されるが、具体的に示す資料は見つかっていない」と話す。

高崎線に続き、88年に桐生・前橋間が開通した両毛鉄道の設立趣意書には桐生の織物や生糸を運ぶ目的を掲げている。97年に高崎・下仁田間が開通した上野鉄道は蒸気機関車の模型も展示している。

上野さんは、繭や生糸を運ぶため本県にいち早く鉄道が敷設されたことを指摘。「群馬のシルクの存在が、鉄道など交通の整備にも大きな影響を与えた」と説明する。

このほか、富岡製糸場の開設とともに、フランス人が広めた生糸の束ね方も紹介。江戸時代は座繰りの枠から外した糸の束数十個を結んだ「提げ造り」が中心だったが、同製糸場ではよりコンパクトに束ねる「ねじり造り」を教えた。これを改良して、4方式で束ねたサンプルも展示している。

開港後、横浜に出店した中居屋重兵衛や茂木惣兵衛、伏島近蔵、吉田幸兵衛ら本県出身の生糸商人の関係資料もある。中居屋は会津藩、上田藩、信州飯沼村などと取引があり、大量の生糸を仕入れることができたことをパネルで説明している。

 「世界につながる日本のシルクロード」展の観覧料は一般200円、大学・高校生100円。火曜休館。問い合わせは日本絹の里(電話 027・360・6300)へ。

富岡製糸場(富岡市) 田島弥平旧宅(伊勢崎市) 高山社跡(藤岡市) 荒船風穴(下仁田町)