旧官営富岡製糸場・東繭倉庫 生きる人々の気質 蚕と親しんだ記憶
金子兜太が語る「東国自由人の風土」 製糸場は“ラピュタの城”(1)
富岡製糸場の東繭倉庫で行われた金子さんと水野さんのトーク。会場に飾られた「座繰りランプ」。「座繰り」で使われる糸枠に生糸を巻き付けた素朴なつくりだ。
「秩父人にとって夢の城だった」という富岡製糸場に触れる金子さん
現代俳句協会名誉会長の金子兜太さんを迎えた「金子兜太が語る東国自由人の風土」(上毛新聞社主催)が十三日、富岡市富岡の旧官営富岡製糸場・東繭倉庫で開かれた。聞き手は金子さんに師事する水野真由美さん。本県と同じように養蚕地帯として知られた埼玉県秩父地方で生まれ育った金子さんが蚕と親しんだ子供のころの記憶、繭と生糸がはぐくんださまざまな文化や風習、そして「養蚕の国」に生きる人たち特有の気質などについて語った。
水野――この会場に来る前に富岡の町を歩いてきた。先生は富岡は初めてということですが、懐かしい感じがしますね。
金子――埼玉では川越が街並みを残す運動をやっているけれど、富岡にも町の人の心意気みたいなものを感じた。途中で立ち寄ったトウガラシ店は、昔の小さなたばこ屋さんと感じが似ていて懐かしかった。古い町の自然体の良さみたいなものを感じた。
水野――わざと古くしているのではないのに、そういうにおいがある。この製糸場も明治五年に建てられたものですね。
金子――明治というと、私の郷里の秩父では明治十七年に秩父事件があった。あれも繭が関係して起こった事件だった。当時、この辺りの人と秩父の人は関係が深く、群馬から秩父事件に参加した小柏常次郎も秩父に親せきがいた。地続きで親しかった場所だといえる。
水野――先生のおじいさんが秩父から峠を越え、吉井の馬庭念流の道場に来ていたそうですね。
金子――あのころの秩父の青年たちにとって、馬庭念流を教わるのが粋な遊びだった。秩父には繭景気でできた田舎歌舞伎が二座あって、遊び人の祖父は道楽で女形をやっていた。本職はうどん屋だったが、女形の所作を藤岡で覚えた。
水野――藤岡で覚えた女形が、秩父音頭になるのですか。
金子――私の父親が古くからあった秩父豊年踊りを今の秩父音頭に直して普及させたんです。当時、明治神宮の遷座が行われて、各県から一つずつ代表的な芸を出すことになった。秩父から出すことになったのだけれど、豊年踊りは下品だったのでこれを直して奉納した。もとは祖父が習った歌舞伎の所作が基本ですね。
水野――群馬と先生はいろいろな縁がありますね。
金子――侠客(きょうかく)ということでも、秩父と群馬はつながっていた。以前、大前田栄五郎について調べたら、清水次郎長以上の大変な侠客だということが分かった。次郎長はけんかになると必ず子分を連れて刀を抜いたけれど、大前田は晩年、刀を抜かずに十何回もけんかをしずめた。子分を連れて行くこともなかった。その点で大物なんですよ。
水野――任侠と生糸にも関係があったといわれていますよね。
金子――侠客が勢力を持つようになったのは繭と生糸があったから。江戸から明治にかけて宿場では市が開かれ、繭と生糸が取引された。みんなに財力ができると賭場が開かれた。それを取り仕切ったのが侠客ですね。そうした意味では繭と生糸が侠客を育てた。
水野――先生は銀行マンでしたが、俳句は道楽とは違いますよね。
金子――ついこの間まで、俳句で生活できるのは一人か二人だった。だからみんな生業を持っていた。戦後になると、山頭火式に諸国をまわって俳句を指導するやり方は、受け入れ側が迷惑に感じるようになった。小林一茶がそうやって俳句指導したけれど、訪問先の奥さんたちが嫌がったという記録があるんです。
水野――先生は日銀の面接試験で「俳句をやるそうだね」と言われて「裏口に線路が見える蚕飼かな」という句を答えたそうですね。
金子――私が学生のころ秩父はまだ養蚕が盛んで、繭や蚕の句を随分作った。面接試験の句は親せきの家から秩父鉄道が見えた風景を詠んだもの。「どんな句を作るんだ」と聞かれ、とっさに「おれは秩父の人間で秩父は養蚕の国だ」という思いが浮かんだ。その句を言ったら、「やるじゃないか」ということになった。だから就職できたのは繭のおかげ。秩父はそんな養蚕の国であり、それは上州にも通じる。
(2005/11/22掲載)