絹人往来

絹人往来

■9・森山学校 全国に織物の種まく

群馬衛生所として1878(明治11)年に前橋に造られ、森山芳平も化学を学んだ。いまは桐生明治館として活用されている=桐生市相生町
群馬衛生所として1878(明治11)年に前橋に造られ、森山芳平も化学を学んだ。いまは桐生明治館として活用されている=桐生市相生町

うっそうとした木々を強い北風が揺する。桐生市東町にある「近代織物発祥の地」は大きな木立に囲まれていた。ノコギリ屋根の旧織物工場が残る敷地内に見上げるほどの碑がある。三メートル以上もあるだろうか。機織りで成功した森山芳右衛門、芳平父子の「顕彰碑」。建てられたのは明治半ば、時の文部大臣榎本武揚の篆額(てんがく)がある。

桐生で機織りを始めた父芳右衛門、その後を継いだ芳平は高い織物技術を持っていた。特に、芳平の精巧な織物は海外の博覧会で高く評価され、明治天皇にも献上されたほど。うわさを聞きつけた大勢の伝習生が全国から父子の元に集まった。碑は父子の教えを受けて郷里に戻った者が、後年その献身的な指導に感謝し贈った。裏には協力した者が記されている。北は秋田から南は熊本まで、その数はざっと百七十人。森山家は機織りを養成した専門学校でもあった。

(2001年1月26日掲載)