■17・和田 英
官営富岡製糸場で工女として働いていた当時を回想した「富岡日記」の著者として知られる和田英
官営富岡製糸場の工女として、器械製糸技術を習得した長野県松代町出身の和田英(旧姓・横田)らは一八七四(明治七)年七月、郷里で操業を始める民間器械製糸場で働くため、帰郷することになった。退場のあいさつで初代所長の尾高惇忠(一八三〇-一九〇一年)に面会すると、「郷里の製糸場に飾るように」と声を掛けられ、直筆の書をもらった。
「繰婦勝兵隊」(繰婦は兵隊に勝る)
「富国強兵」よりさらに一歩上をゆき、「繰糸技術を持つ工女は、兵隊以上に国のためになる」という直言だ。英はこの言葉に感銘を受け、「このような立派なる、私ども身にとりましては、折紙とも申すべき御書物(中略)、全世界に自分等が繰りました糸を非難する西洋人はなえとまで信じておりました」と、退場から三十年以上過ぎた後に著した回想録「富岡日記」の中で明かしている。