絹先人考

絹先人考

■25・佐羽 喜六

日本織物の機器類を調達するため渡米した喜六(左)。右は技術長(工場長)に招かれ、喜六とともに渡米した山岡次郎。中央はニューヨーク総領事とみられる
日本織物の機器類を調達するため渡米した喜六(左)。右は技術長(工場長)に招かれ、喜六とともに渡米した山岡次郎。中央はニューヨーク総領事とみられる

 〈山田郡桐生新町に工場を設くる〉

上毛新聞の創刊号(明治二十年十一月一日付)一面に、桐生の織物工場「日本織物株式会社」設立の動きを伝える記事がある。

同社の建設は、この年の暮れに始まり、三年後の一八九〇(明治二十三)年に完成した。

敷地面積は、官営富岡製糸場(約五万二千平方メートル)を大きく上回る六万三千平方メートル。資本金は現在に換算して三十億円を超える巨大工場だ。

設備も当時の常識を覆すものだった。撚糸(ねんし)、染色、機織、整理(仕上げ)という織物の全工程を一社で担うため、水車タービン、力織機、撚糸機、整理機を備え、多い時で六百人、四百三十台もの機械が稼働した。