絹先人考

絹先人考

■23・吉田 芝渓

芝中(現渋川市渋川・御蔭地区)にある芝渓の墓。県史跡に指定されている
芝中(現渋川市渋川・御蔭地区)にある芝渓の墓。県史跡に指定されている

芝中(現渋川市渋川・御蔭地区)にある芝渓の墓。県史跡に指定されている

江戸時代後期の儒学者、吉田芝渓は一七九三(寛政五)年、開墾に取り組む決意をした。場所は渋川村(現渋川市)から伊香保温泉へ向け、山道を一里(三・九キロ)余り登った芝中(現御蔭地区)。軽石交じりのやせた土。西は榛名山、北と南はその尾根に囲まれ、シカやイノシシの食害を受ける厳しい条件だった。学者であり、繭や生糸、たばこを商っていた芝渓が、渋川宿の中心部に建つ家を捨て、なぜ過酷な開墾に挑んだのか。

答えは中国の歴史書「史記」にあった。史記は農業で豊かになることこそ天地神明にかなう「本富(ほんぷ)」と説き、工商は農に次ぐ存在、農工商の道から外れた富裕者は憎むべきものと教えている。芝渓は毎夜、史記一巻を読破し、一字一句を追究した。その答えが「農業の実践」だった。