絹先人考

絹先人考

■30・徳江 八郎

徳江八郎
徳江八郎

〈米国の織物業は著しく進歩し、原料となる精良な生糸を切望している。わが国の養蚕製糸の技術は米国の要請に適合するまで発達しているだろうか〉

伊勢崎の徳江製糸所を経営した徳江八郎は米国・シカゴで一八九三(明治二十六)年に開かれた世界大博覧会を視察する。その時の様子をつづった「米国紀行」の冒頭に、こう記した。

伊勢崎地区は県内の主な養蚕地域の中で、製糸業の発達があまりみられなかった珍しい地域といわれる。養蚕の主流は蚕種業で、他の養蚕農家は副業として座繰りによって伊勢崎織物の原料となる玉糸や熨斗糸(のしいと)を紡いだ。

農家は自宅で行う仕事で収入が得られたため、外に働きに出るという考えはなかった。その上、器械製糸には建物の建設など投資がかさむことから、器械製糸が発達する要因は少なかった。

「精良な生糸」を作るため徳江は七三年、伊勢崎で近代製糸企業の草分けとなる共研社の設立に参画する。さらに東京・赤坂の官営製糸場を借り受け、当時フランスとともに世界の最高水準を誇った製糸技術を学ぶため、イタリア人を招いて指導を受けた。

日記をひもといて一八七〇(明治三)年の足跡をたどる。「是ヨリ日々糸ノ試験ニ関係シ、ミウラー(ミューラー)ニ欧州製糸ノ実際ヲ問フ故、宅ニ帰スル克ハサル多事ナリ」(七月十七日)。「民部省ヨリノ達ニ拠リ富岡ニ行、(中略)尾高(惇忠)庶務・小佑、外人ブリュナ氏(ポール・ブリュナ)ニ面談、新建製糸場ノ利害ヲ論ス」(十月十九日)とある。備忘録のような簡潔な文章だが、日記からは器械製糸の先駆者としての情熱がにじむ。