■37・伏島 近蔵
伏島 近蔵
一八五九(安政六)年の開港を機に、半農半漁の寒村から有数の国際貿易港へと発展を遂げた横浜。六五(慶応元)年、二十九歳でこの地に移り住んだ伏島近蔵は、勤務先の商館「アメリカ一番館」で蚕種売買に商才を発揮。六八(明治元)年に独立し田辺屋を興した。
薮村(現太田市薮塚町)の地主の家に生まれ、十歳前から行商に出た。同じころ、店でだんごの値段を掛け合った逸話もある。商才はこのころから育っていたようで、横浜には開港の年に出かけ、キノコやゴマを売って三十両の利益を上げた記録も残っている。
当時の日本最大の輸出品目は生糸。蚕種商人として貿易業を営む伏島は輸出事業の資金力を強化するため、商館に勤務した人脈を生かし、高崎出身の茂木惣兵衛(一八二七―九四年)らと七八年に第七十四国立銀行(横浜銀行の前身)を設立、頭取に就いた。業務は生糸売買のための為替の取り扱いが中心。八三年には高崎に支店を設けた。