絹の国の物語

絹の国の物語

第1部・新町屑糸紡績所

2・明治政府の期待担う 2005/10/18

明治初期から昭和にかけての女性従業員の制服の移り変わり
明治初期から昭和にかけての女性従業員の制服の移り変わり(カネボウフーズ新町工場所蔵)

「此の業の興るを慶とせざらんや―」。大久保利通内務卿(ないむきょう)が、旧新町屑糸紡績所(旧内務省勧業寮新町屑糸紡績所)開業に際し、期待をこめて祝辞を述べた。

1877(明治10)年10月20日、官営模範工場として設立した旧新町屑糸紡績所の開業式でのことだ(「鐘紡新町工場90年史」)。


◎天皇が巡覧

式典ではさらに、楫取(かとり)素彦・群馬県令が、同紡績所を、明治5年開業の「旧富岡製糸場」(富岡市)と並ぶ「人智の開明」の象徴としてたたえた。

式の出席者には、大隈重信大蔵卿、伊藤博文工部卿、前島密内務少輔、松方正義勧農局長ら当時の政府のそうそうたる名も連なる。

その後、大久保卿からの報告を受けた明治天皇が、翌年9月2日に新町に行幸し、紡績所を巡覧している。

近代化を急ぐ明治政府の期待の大きさを示すエピソードである。元新町工場長で鐘紡社長も務めた石原聰一さん(73)=県教育委員長=は「紡績所は、日本初の産業が生まれた地。国の期待は並々ならぬものだったはず」と話す。

屑糸紡績は、当時の日本で廃物と見られていた屑糸や屑繭などを再利用して生糸を生産する技術で、政府が本腰を入れて導入を進めていた。

工場用地の候補として群馬のほかに東京、埼玉、長野、山梨が視察された。その中でなぜ新町が選ばれたのか。理由は、周辺が養蚕の盛んな地域であったこととともに、現在も近くを流れる温井川と土地の高低差が動力水車を設置するのに適していたため―とされる。

◎技術力を重視

設立当初、紡績所の従業員は、前橋・高崎の旧士族の娘が多かったという。

富岡製糸場で働いた女性が「工女」と呼ばれたことに対し、紡績所での呼び名は「技女(ぎじょ)」。県世界遺産推進室の松浦利隆室長は「紡績所では、技術力を重視されていた様子がうかがえる」と分析する。

その後、紡績所は明治20年に三井家に払い下げられ、明治44年に鐘淵紡績(現在のカネボウ)の所有に。1975年からは食品工場として稼働する。

国道17号を新町方面に走ると、「絹糸紡績発祥の地」と書かれた看板が目に入る。紡績事業が行われなくなり、30年余り。現在も敷地内に残るのこぎり屋根倉庫や赤れんがの建物が、創業当時の面影を伝えている。