絹の国の物語

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第4部・片倉工業の足跡

5・「王国」築いた先見性 一代交雑種 2006/1/6

昭和15年ごろ撮影された輸出用生糸の梱包作業。法被の(十)(まるじゅう)は片倉の商標で、社章にも使われている
昭和15年ごろ撮影された輸出用生糸の梱包作業。法被の(十)(まるじゅう)は片倉の商標で、社章にも使われている

旧官営富岡製糸場の事務所に、「今井五介翁遺訓」という屏風(びょうぶ)が掛かっている。屏風は「資本の蓄積を計り誠実を旨とし天職を完せよ。明朗なること太陽の如く不平は一掃せよ」で始まり、16項にわたり経費節減や能率向上などの心得が続く。

今井五介(1859―1946年)は初代片倉兼太郎の2番目の弟で、今井家に養子に出たため今井姓を名乗っている。五介の遺訓はかつて片倉が経営する全国の製糸工場に掲げられていたという。

今井 五介
今井 五介

五介は「片倉王国」を築いた最大の功労者といわれる。

片倉工業社史によると、五介は米国に遊学中、父・市助が病床に伏したとの知らせを受け、1890(明治23)年に帰国した。帰国すると完成したばかりの松本製糸場を任された。初代兼太郎の逝去後は、片倉製糸紡績副社長として弟の佐一(2代目兼太郎)を補佐した。

五介の功績は多条繰糸機導入など多岐にわたるが、最大の功績は何といっても一代交雑種を全国に普及させた先見性にあった。


◎無料で配布

当時、遺伝学者の外山亀太郎(1868―1918年)はメンデルの法則が植物だけでなく、蚕でも成立することを発見していた。外山は、性質の違う両親の子供は、その両親のいずれよりも優れた性質を持つという「雑種強勢」を提唱。蚕の品種改良に雑種強勢を利用すべきだと主張した。

だが、養蚕農家は飼育の失敗や繭が売れなくなることを恐れて、一代交雑種飼育には及び腰だった。五介は一代交雑種の可能性を見抜き、養蚕農家に「蚕が死んだら責任は片倉が持つ。作った繭は必ず片倉で引き受ける」と約束。蚕種を無料配布して、一代交雑種の飼育を委託した。

結果は予想を上回るものだった。一代交雑種は旧来種よりも病気に強く、繭の品質は素晴らしいものだった。五介は1914(大正3)年、合資会社大日本一代交配蚕種普及団を設立。一代交雑種はわずか五年で全国に広がった。

一代交雑種に加え、研究開発を支援していた御法川直三郎の多条繰糸機が実を結んだ。良質の繭から多条繰糸機で高品位の糸をひくことができ、片倉の生糸は世界的な名声を獲得した。高級生糸「片倉ミノリカワ・ローシルク」は最高級生糸の代名詞になった。

◎「特約取引」

及団の功績はこれだけではない。普及団が売った蚕種は、片倉が派遣した養蚕指導員が技術指導を行い、肥料代などの貸し付けも行った。その代わり繭は必ず片倉に売り渡すという約束が交わされ、繭の確保につながった。これは片倉が先鞭(せんべん)を付けた「特約取引」と言われ、繭不足の時代にあって、片倉の製糸業を支えた。

五介は’33(昭和8)年、片倉製糸紡績の社長に就任した。就任から七年後の記録によると、同社の製糸場は国内外に62ヶ所、蚕種製造所13ヶ所。所有地は計123万坪で、従業員は3万8000人に上った。

東京大学名誉教授の石井寛治さん(67)は、五介の功績を高く評価する。

「五介はアメリカで遊んでいたといわれているが、片倉に合理的な発想を持ち込んだ。人絹が台頭すると、片倉と郡是製糸(京都)以外の大製糸は没落した。片倉がこれを乗り切ったのは、五介が世界のマーケットをきちんと見ていたからだ」