絹の国の物語

絹の国の物語

第6部・島村を引き継ぐ

3・気概 混乱期にも海外進出 2006/8/29

田島弥平がイタリア滞在中に記した日記を手にする田島健一さん。手前は田島啓太郎がイタリアから持ち帰った顕微鏡
田島弥平がイタリア滞在中に記した日記を手にする田島健一さん。手前は田島啓太郎がイタリアから持ち帰った顕微鏡

「洪水に見舞われた土地は桑の生育に適したことから、村人は競って蚕を育て、蚕種は最も精良で評判は海外でも高まった」。伊勢崎境島小学校(伊勢崎市境島村)の校庭に建つ「島邨(しまむら)沿革碑」。一八九七(明治三十)年に刻まれた碑文の一節を読むと、蚕種で栄えた島村の歴史が鮮やかに浮かび上がってくる。

度重なる利根川の洪水を味方にし、蚕種に励んだ島村。その島村に大きな変化をもたらしたのが、六四(元治元)年の蚕種輸出解禁だった。村の蚕種業者は急増、七七年には村民の八割が携わるまでになった。


◎輸出が解禁

  「よくあの時代にイタリアに行った。雄飛する気概は大したもんだ」。ぐんま島村蚕種の会会長の田島健一さん(76)は島村の歴史のクライマックス、七九年から八二年までに行われた計四回の蚕種直輸出をこんな言葉で語った。

島村の蚕種を携えて初めて海を越えた三人のうちの一人、田島弥平は健一さんの先祖だ。弥平らは横浜から米国、英国、フランスを経てイタリア・ミラノに入り、蚕種約三万枚を販売した。

二回目は田島武平と田島弥三郎。武平らはインド洋経由でイタリアに向かったが、蚕種は米国経由で発送した。健一さんは「熱帯のインド洋を運ぶと蚕種が傷んでしまうことを知ってたんだな」と、当時の蚕種技術の高さを誇らしそうに話した。

八一年には田島弥三郎の長男、啓太郎が渡航して三年間滞在、三回、四回の直輸出を担当した。啓太郎は顕微鏡七台を持ち帰り、蚕の微粒子病検査や研究に役立てた。

武平の子孫、田島信孝さん(59)は「商売の意欲もさることながら未知の世界への冒険心が感じられる」と当時の偉業を思う。

◎先人の精神

イタリアへの蚕種直輸出が始まった七九年は、西郷隆盛らが起こした西南戦争の二年後。まだ明治維新の混乱が残る時に島村の先人たちは果敢に海を越えた。先人たちの「気概」や「冒険心」こそ、蚕種の会が今の時代に最も伝えたいことだ。

島邨沿革碑の碑文はこう続く。「このことが村が現在まで続いている理由です」。碑文が刻まれてから百九年。蚕種の会の会員らは「先人の精神」をあらためて心に深く刻む。