絹の国の物語

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第4部・片倉工業の足跡

4・企業は社会の「公器」 2代目兼太郎 2006/1/4

諏訪湖畔にある片倉館。2代目兼太郎が地域の保養施設として建設した(撮影年代不明)
諏訪湖畔にある片倉館。2代目兼太郎が地域の保養施設として建設した(撮影年代不明)

長野県諏訪市の諏訪湖畔。湖を見渡す 約3200坪の敷地に美しい洋風建築の温泉保養施設「片倉館」がある。完成したのは1928(昭和3)年で、現在も毎年20万人の来場者でにぎわう。建設したのは2代目片倉兼太郎(1862―1934年)だ。


2代目片倉兼太郎
2代目片倉兼太郎

兼太郎は’22年、欧州、北米、中南米の長期視察に出掛けた。欧州の農村に充実した保養施設が整っていることに感銘を受けた兼太郎は、片倉館の建設を決めたという。

自慢は「千人風呂」と名付けられた大理石の浴槽で、大きさは幅4.0ートル 、長さ7.5メートル、深さ1.1メートル。男女の浴槽は同じ大きさで、こうしたところにも家族や従業員を大切にした兼太郎の優しさがうかがえる。

財団法人片倉館理事長で、片倉家5代目当主の片倉康行さん(71)は胸を張る。「片倉館は娯楽のない時代に、2代目兼太郎が従業員だけでなく、一般の人にも温泉を利用してもらおうと建設した。これは日本の福祉施設の先駆けだ」


◎危機に奔走

2代目兼太郎は襲名前の名を佐一といい、初代兼太郎の末弟にあたる。佐一は1877(明治10)年、東都遊学から帰郷すると、養父でもある初代兼太郎の事業を率先して手伝った。垣かいと外製糸場が開設されると、まだ16歳だった佐一は土を担いだり、繭の仕入れ、工女集めに奔走した。兄たちに負けない働きぶりで、従業員の信頼も厚かったという。

佐一の活躍を伝えるエピソードがある。’81年に外国貿易商への取引改善要求から生糸輸出が中断すると、糸価が暴落して同製糸場の損失は1万円に上った。同業者が相次いで倒産する中、片倉は第十九国立銀行から融資を受けて危機を脱した。この交渉をまとめ上げたのが、まだ21歳の佐一だった。

初代兼太郎が逝去すると、佐一は2代目兼太郎を襲名。初代に負けない統率力で片倉組を発展させた。1920(大正9)年には片倉製糸紡績株式会社を設立、本社を東京・京橋に移転した。株式公開は「企業は社会の公器である」という信念だったという。

◎財閥を形成

倉の歴史を見ると、2代目兼太郎は第一次世界大戦後の日本経済膨張期の経営を担った。

日本には戦火が拡大したフランスやイタリアに代わり、米国向け生糸の注文が殺到していた。米国は経済発展で所得が増え、これまで高級品だった絹が消耗品の靴下にまで使われるようになっていた。

こうした情勢を見込んで片倉製糸紡績は横浜と神戸に出張所を設置、米国向け生糸の直輸出を開始した。’23年の関東大震災で横浜港からの貿易が途絶すると、すぐにニューヨーク出張所を開設して生糸の販売を継続した。

一方、兼太郎は日東紡績、片倉米穀肥料、片倉生命保険などを設立。多角経営に乗り出し、片倉財閥と呼ばれるコンツェルンを形成した。

財閥を率いるほどの兼太郎だが、生活は質素だったという。片倉康行さんが長野県岡谷市に残る本家の蔵を整理したところ、残っていたのは大量の火鉢や食器、寄付の礼状だったという。

康行さんは「2代目は私利私欲のない人で、所有はすべて会社のものになっていた。蔵の整理で分かったのは、ただ大勢の人が本家に出入りしていたということだけだ」と話す。それは伝え聞いていた二代目兼太郎という偉大な祖先の再確認でもあった。