絹の国の物語

絹の国の物語

第1部・新町屑糸紡績所

3・「輝ける時代」を体現 2005/10/19

「新町」の文字が読み取れるカネボウフーズ新町工場内の赤れんが倉庫
「新町」の文字が読み取れるカネボウフーズ新町工場内の赤れんが倉庫

新町には昭和30―50年代に「鐘紡区」と呼ばれた地域があった。旧新町屑糸(くずいと)紡績所が残されているカネボウフーズ新町工場付近、現在の「新町一区」の中だ。そこには鐘紡従業員用の社宅が並び、従業員とその家族のにぎやかな生活があった。

工場構内には、従業員と家族が使える大浴場と25メートルプール。従業員の子供たちは、構内を通学路代わりにしていた。

比較的所得の高かった鐘紡従業員が町に繰り出したため、商店街は活気づいた。街中に映画館が置かれていたのもこのころだ。

新町在住の鐘紡関係者は一時期2000人近くにのぼり、そのまま新町に移り住んだ人も多い。


◎特別な存在

新町工場の従業員OB組織「新鐘(しんしょう)会」の元会長、片桐正夫さん(85)もその一人。正夫さんは、県立女子大教授で、住民組織「よみがえれ!新町紡績所の会」会長の片桐庸夫さん(57)の父親でもある。

正夫さんは山形県出身で、終戦直後の1946年に鐘紡に入社、新町工場に赴任した。ここでの結婚を機に、本籍地を新町に移した。

以来30年近く、同工場で紡績の原材料の仕入れを担当。75年に同工場が食品工場に転換した際に、紡績事業が継続されていた同社の長野・丸子工場に転勤し、78年に退社した。

正夫さんは「全国にあった鐘紡の工場の中でも、新町工場は特別だった」と語る。元官営工場で、歴史のある建物だったことに加え、従業員の規律の正しさや雰囲気は「輝ける時代の鐘紡」を体現していたのだという。

今年4月、新鐘会が年に一度開く総会で、屑糸紡績所の保存問題が初めて話題に上った。

保存に反対する人は、いなかった。多くの会員が「鐘紡の誇りを後世に伝えたい」と意欲的だった。その後に設立された「よみがえれ!新町紡績所の会」には、多くの元従業員が参加している。

◎経済に貢献

紡績所の再評価を望むのは、新町商店街や商工会関係者も同じだ。新町経済における鐘紡の貢献度は高く、新町工場の事業規模の縮小に合わせて、町はにぎわいを失っていったためだ。

紡績所が文化財や観光地として活用されることで、商店街の利用者増などを期待する声もある。

「紡績所の会」の事務局も兼ねる新町商工会は「保存運動を通じ、多くの町民が工場とのつながりや新町の歴史を再認識しつつある。この動きは、今後のまちづくりを見直す良い機会になる」と期待している。