絹の国の物語

絹の国の物語

第1部・新町屑糸紡績所

5・日本人が設計・施工 2005/10/21

日本人技術者による日本初の洋式工場の新町屑糸紡績所の工場内部
日本人技術者による日本初の洋式工場の新町屑糸紡績所の工場内部

瓦(かわら)ぶき屋根、赤れんが倉庫―。カネボウフーズ新町工場内には、旧新町屑糸(くずいと)紡績所(旧内務省勧業寮屑糸紡績所)や旧繭倉庫をはじめ、現代の工場施設ではほとんど見られない明治―昭和初期の建物が残されている。

明治期の建物では、木造紬(つむぎ)糸工場の軒下に寺社などで装飾に使われる「木きばな鼻」が確認できるほか、赤れんが倉庫の通気口を覆う唐草模様など、工場施設にもかかわらず、所々に装飾が施されているのが分かる。

県世界遺産推進室の松浦利隆室長は「近代化の波に乗る時代背景や、建築した人の丁寧な施工の表れ」とみる。


◎初の洋式工場

同紡績所は、1873(明治6)年のウィーン万博に合わせて渡欧し、ヨーロッパの技術に直接触れた日本人技術者らの手で作られた日本初の洋式工場だ。

外国人技術者の手で建設された旧富岡製糸場(富岡市)が開業してからわずか五年後に、日本人が洋風建築の技術を取り入れていたことを示している。

紡績所は、ドイツ人技師・グレーフェンの補佐で、初代所長の佐々木長淳と大工棟梁(とうりょう)の山添喜三郎が設計・施工した。

◎渡欧した大工

山添は、初めて渡欧して本格的な洋風建築に触れた大工で、日本の洋館建築に大きな影響を与えたと言われている。

山添は帰国後、新町を皮切りに、全国を転々としながら紡績所や発電所を建築した後、宮城県に県の建築技師として迎えられた。

山添の建築で現存するのは、新町紡績所が確認される以前には、宮城県登とよま米町の「旧登米高等尋常小学校」(国重要文化財)と「旧登米警察署」(宮城県重文)の2ヶ所のみとされてきた。

いずれも明治の洋風建築を代表する建物として文化財指定を受け、旧登米小が「教育資料館」、旧登米警察署は日本で唯一の「警察資料館」として一般公開されている。

山添は工事や資材の選定に厳格だったため「宮城県内の瓦屋や材木屋が次々倒産した」というエピソードが伝わる人物で、同県では小学校の社会科学習でも取り上げられているという。

新町紡績所について、教育資料館の高橋洋館長は「宮城県外で山添による建物が現存することは把握していなかった」と、驚きを隠さない。

そして期待を込めてこう話す。「登米町民は、山添が今日まで残る立派な建築を残してくれたことに感謝している。新町でも、ぜひ建物を存続できるように願っている」