絹の国の物語

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第4部・片倉工業の足跡

7・転機 復興支えた富岡工場 2006/1/9

岡谷蚕糸博物館に展示されている富岡製糸場のフランス式繰糸機
岡谷蚕糸博物館に展示されている富岡製糸場のフランス式繰糸機

長野県岡谷市の市立岡谷蚕糸博物館に、旧官営富岡製糸場で実際に使われていたフランス式繰糸機が展示されている。繰糸機はフランス人技師、ポール・ブリュナが日本人に合わせて特別に作らせたもので、残っているのはこの一台だけだ。

同博物館にはこのほか、同製糸場で使われた水分検査器やブリュナ愛用の柱時計も展示されている。

貴重な品々を集めたのは、三代目片倉兼太郎(1884―1947年)。戦争で散逸しかけていた蚕糸業の器械や資料を収集し、片倉館の近くの「懐古館」に展示した。市立岡谷蚕糸博物館にある展示品の多くは、彼が集めたものだ。

3代目兼太郎は1941(昭和16)年、今井五介の後を継ぎ、片倉製糸紡績の社長に就任した。社長を務めたのは、太平洋戦争の開戦から戦後の混乱期に当たる。


◎戦争の影

片倉家五代目当主の片倉康行さん(71)は幼年期、祖父の3代目兼太郎と接した。「63歳という早さで亡くなったのは、片倉にとって不幸だった。先見の明がある人で、製糸の次は観光だと言っていたら、やがてそうなった」と懐かしそうに語る。

片倉製糸紡績は、3代目兼太郎が社長に就任したころ転機を迎える。米国で発明されたナイロンの工業化が進み、戦争で生糸の対米輸出が途絶えたのだ。

戦争は製糸業にも大きな影を落とした。40年に生糸配給統制規則が始まり、生糸の国内消費が割当切符制に変わった。41年には蚕糸業統制法の施行で、蚕種、繭、生糸生産が統制された。これを受け、片倉製糸紡績は事業所の閉鎖や軍需産業への転換を余儀なくされた。

社史によると、41年に製糸工場15ヶ所、蚕種製造所3ヶ所を閉鎖。さらに製糸工場29ヶ所、蚕種製造所九カ所を含む計51ヶ所が日本蚕糸製造株式会社の管理下に置かれた。9ヶ所の事業所を軍需会社に売却、15ヶ所を軍需産業へ転換して、絹歯車や航空機用油性パッキングを製造した。

片倉製糸紡績はこの間、43年に社名を片倉工業に変更している。

終戦―。片倉工業は海外にあった製糸工場や農園などの資産を喪失し、46年にはGHQ(連合国軍総司令部)により財閥解体の指定を受けた。

しかし同社の製糸業への思いは失われなかった。富岡工場は戦時中、落下傘用の太い生糸を生産しており、戦中・戦後の混乱期もほぼ途切れることなく操業した。

そして日本蚕糸製造株式会社の解散で工場が返還された時、同社が全力を挙げたのが製糸部門の復活だった。

一方で、軍需転換していた工場を民需に再転換し、農業機械や自動車部品、縫製事業などの新事業に乗り出した。

◎外貨を獲得

後の日本は再び生糸輸出で復興の足掛かりを築いた。県世界遺産推進室の松浦利隆室長(48)は「戦後の復興は生糸輸出で立ち上がった。片倉が富岡工場で生産した生糸が外貨を稼いで、日本の復興を支えた」ととらえる。

製糸業はその後、朝鮮戦争の特需に支えられて活況を取り戻し、養蚕の灯は再び全国にともった。しかし、ナイロンの普及や生活スタイルの変化で、製糸業が右肩上がりだった時代は終わっていた。片倉はその後、工場の整理を進め、事業基盤の転換を模索していった。