絹の国の物語

絹の国の物語

第1部・新町屑糸紡績所

6・文化伝える木造工場 2005/10/22

120年以上前の姿をとどめる木造紬糸工場
120年以上前の姿をとどめる木造紬糸工場

新町のカネボウフーズ新町工場は、アイスクリームを主に生産する食品工場。構内では、白衣を身につけた従業員や製品を運ぶ大型トラックとすれ違う。

新町屑糸(くずいと)紡績所(旧内務省勧業寮新町屑糸紡績所)は、その中にひっそりとたたずんでいる。なぜ、稼働中の工場敷地内に明治時代の建物が120年以上も残されてきたのか。

取り壊されなかった理由として(1)明治天皇や政府高官が視察した元官営工場として大切にされてきた(2)機械設備が操業中で大幅な改修工事ができなかった―などが挙げられる。

しかし、明治時代の木造建築は時に、工場関係者にとって不都合を生じさせたこともあった。

元新町工場長で鐘紡社長も務めた石原聰一さん(73)=県教育委員長=が、新町工場在任中の1973年、歴史ある木造紬(つむぎ)糸工場を取り壊し、建て替える計画が持ち上がった。

当時、鐘紡は新町と長野県丸子町に絹紡工場を置いていた。丸子工場は、新町工場よりもやや新しい大正時代の鉄筋造りだったため、本社は新設備を丸子工場ばかりに導入していたという。

石原さんは「新町工場の従業員の士気高揚のため、新しい機械を入れたい」と考え、新設備にふさわしい新しい工場への建て替えを決断。木造工場の老朽化を証明しようと、大手ゼネコンの技術者に建物の調査を依頼した。

ところが技術者たちは、「木造工場は今後何年間でも使用できる」と回答した上で、こう告げた。「これほど立派な明治時代の建物が残っているとは思わなかった。できることなら使い続けては」と。


◎夢破れて幸運

「木造工場建て替え計画」は、当時、鐘紡が絹糸などの天然繊維事業よりも、化粧品事業に力を入れていたこともあり、結局、本社から予算が下りず、実現しなかった。

石原さんは「当時は夢破れたことが残念でならなかった。でも、それが歴史遺産を残すことにつながったのだから幸運だった」と語る。

◎地元から陳情

70年代のオイルショックの際は、採算のとれない天然繊維事業の縮小計画が浮上。新町工場の閉鎖が検討された。だが、地元新町からの陳情もあり、食品工場に転換することで存続した。

「新町工場は町、鐘紡にとっても意味のある場所。建物として優れているだけでなく、経済や地域の文化を伝える意味でも重要だ」。石原さんは今、そう考える。