第4部・片倉工業の足跡
1・3原則 姿勢一貫製糸場守る 「世界遺産」に理解 2006/1/1
引き渡し式で富岡市民の歓迎を受ける片倉工業の岩本謙三社長(写真中央・小寺弘之知事の右隣
「売らない」「貸さない」「壊さない」―。
片倉工業(本社・東京)は旧官営富岡製糸場をこの三原則で守ってきたと言われている。同社が製糸場を取得したのは1939(昭和14)年。以来、66年間。その姿勢は変わらなかった。
これまで何度か富岡市や文化庁が同製糸場を文化財に指定しようと打診した。が、そのたびに同社は文化財保護法が工場改修を制約すると、一貫して拒否してきた。
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昨年になって事態は急転した。同社が世界遺産登録運動に理解を示し、富岡工場の国史跡指定を受け入れたのだ。管理も市に移管することになり、製糸場を誇りとしてきた多くの市民は喜び、感謝した。
昨年10月、同製糸場で開かれた感謝の集い。市民の拍手で迎えられた岩本謙三社長(64)は言った。
「立派な形で富岡製糸場をお渡しできた。これからも群馬の人との縁を大切にしていきたい」
◎残された課題
富岡製糸場の世界遺産登録について同社にアプローチがあったのは2003年8月のことだった。
全国に先駆けて近代化遺産総合調査を行い、保護に向けた取り組みを続けてきた本県にとって、その象徴とも言える同製糸場の保存・活用は、残された大きな課題の一つだった。当時、県政課題に組織横断で取り組んでいた県特別政策本部は、同製糸場の可能性を検討。そこで浮かんだのが旧官営富岡製糸場の世界遺産登録に向けた運動だった。
世界遺産が脚光を浴び、国内で200近い運動が各地で起きていた。が、当時の日本での世界遺産のイメージは、数百年の歴史絵巻に彩られた京都や日光、雄大な景観が迫る白神山地や知床に代表されるスケールの大きなものが中心。富岡製糸場は近代化遺産としての価値が高く評価されながらも、それまで世界遺産の候補としてとらえられることは、まったくと言っていいほどなかった。
登録の可能性を指摘したのは、国立科学博物館で産業技術史を研究する清水慶一さん(55)だった。「産業分野の世界遺産がある。それならば富岡製糸場も世界遺産になれるかもしれない」。清水さんは力説した。
登録の可能性を見いだした県特別政策本部長の大塚克巳さん(60)=現前橋市助役=が片倉工業に協議を打診した。
大塚さんは12年前、養蚕振興を目的とした「群馬シルク・スクエア構想」で、富岡工場の活用を交渉した経験があった。この時の片倉工業は製糸業からの撤退に伴う構造転換の過渡期で、大規模な不動産開発に着手したばかり。まだ同製糸場の活用を検討する機運がなく、県の提案は一蹴(いっしゅう)された。だが、交渉の中で同社担当者は言った。「埼玉県大宮市で進めている大規模開発が一段落したら、次は富岡工場の活用を考えます」
◎活用へ再提案
それから10年。県は世界遺産への登録構想という形で、同工場の活用を再提案した。それは、同社が進めていた「さいたま新都心開発」にめどがついた時期と重なっていた。
片倉工業では岩本社長が世界遺産構想を「グッドアイデアだ」と受け止めた。「そういう価値を持っていることは認識していたので、大きい枠の中で活用を考えるのが一番いい」と異論はなかった。
県と片倉工業との協議を前にした’03年8月25日、小寺弘之知事が構想を発表した。すると岩本社長の元には蚕糸業界をリードする大日本蚕糸会の重鎮から「おめでとう」と保存に尽力した同社の労をねぎらう祝福が相次いだ。
協議の冒頭、岩本社長は、そのエピソードを笑顔で披露した。かつて活用に消極的だった同社の姿はなく、製糸業の歴史を未来に伝えたいという熱意があふれていた。
富岡製糸場は1872(明治5)年の創業以来、官営、三井、原、片倉と受け継がれ、日本の近代化を支えてきた。最も長く経営権を握ったのは片倉で、1987年の操業停止後も18年間、同製糸場を保存するなど、世界遺産登録運動の礎を築いた。第四部では、片倉の歴史をたどりながら、日本の製糸業の盛衰を追う。
【片倉工業】 1873(明治6)年、長野県旧川岸村(現・岡谷市)で十人繰りの座繰り製糸として始まった。片倉組、片倉製糸紡績、片倉工業と拡大に伴って組織変更し、最盛期には国内外に64の製糸工場を経営するなどコンツェルン(片倉財閥)を形成した。現在は資本金17億5000万円。連結子会社6社を含め、関連企業は計15社。不動産開発、小売り、衣料品事業などを多角展開している。