絹の国の物語

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第4部・片倉工業の足跡

6・「官営時代から関心」 変遷 2006/1/7

原合名会社時代の富岡製糸場=1908(明治41年)年ごろ撮影
原合名会社時代の富岡製糸場=1908(明治41年)年ごろ撮影

一通の契約書が東京・京橋の片倉工業本社ビルに眠っている。「原合名会社と片倉製糸紡績株式会社との間に、左の通り契約を締結す」

表題は「富岡製糸会社合併契約書案」。日付は1938(昭和13)年5月31日で、末尾には、生糸貿易で巨万の富を築いた原合名会社の原富太郎(1868―1939年)と、国内外に約60の製糸工場を持っていた片倉のトップ、今井五介の署名があった。

原合名会社は38年7月、富岡製糸場の経営を片倉に委任。1年後、富岡製糸場は片倉に合併された。契約書には(1)原料繭の購入に関する一切(2)特約組合取引その他蚕業政策遂行に関する一切(3)内地向主産業と副産物購買に関する一切(4)土地・建物・機械一切―など、すべての権利を譲渡することが記され、両トップが合意した事実上の本契約ともみられている。

富岡市立美術博物館の今井幹夫館長(71)は「片倉は官営時代から富岡製糸場の経営に強い関心を持っていた」と明かす。

五介の功績は多条繰糸機導入など多岐にわたるが、最大の功績は何といっても代交雑種を全国に普及させた先見性にあった。


◎払い下げ

官営でスタートした富岡製糸場は1880(明治13)年、経常赤字のため、最初の民間払い下げが検討された。入札者を募集したものの、現れなかった。

2回目は’91年で、2者が入札。1位は片倉兼太郎で、入札価格は1万3573円。政府の予定価格が5万5000円だったため、払い下げは不調に終わった。

3回目は93年。五者が入札し、三井銀行社長の三井高保が12万千460円で落札した。この時、3位の10万2550円50銭を入れたのが、開明社代表・林国蔵。開明社の代表は一年交代の輪番制で、実権を握っているのは片倉兼太郎だった。

その後、富岡製糸場は三井の手を離れ、原、片倉と経営者が入れ替わっていった。

三井は入札前、三井財閥の改革者と言われる中上川彦次郎(1854―1901年)が工業部門を設立。落札した富岡製糸場を含め四製糸場を経営したが、2工場の経営が振るわない。中上川が死去すると、三井は工業部門から撤退、原合名会社への譲渡を決めた。

原合名会社では、工場長の大久保佐一が蚕種部を設立。農家に蚕種を無料配布するなど、繭の全量確保を目指して積極経営を行った。

しかし、原は世界恐慌直後に行った大規模な設備投資が経営を圧迫。さらに、県が主導した組合製糸「群馬社」の社長を兼務した大久保が内紛に巻き込まれ自害した。原富太郎も老齢を迎え、富岡製糸場の経営は重荷になっていた。

◎合併に執念

939(昭和14)年、ついに富岡製糸場は片倉の手に渡った。今井館長は「片倉兼太郎の執念が年代を経て生きていたという視点で歴史を見ると面白い」と話す。

だが、片倉の富岡製糸場合併は時期に恵まれていない。直前に日本は米国から日米通商条約の破棄を通告され、生糸の対米輸出が途絶した。

片倉にとって、富岡はそれほど魅力的だったのだろうか―。

片倉の歴史に詳しい市立岡谷蚕糸博物館の嶋崎昭典名誉館長(77)は推測する。「原が最新の設備を入れるなど、富岡は即戦力になる工場だったことは確か。しかし、それよりも片倉は、官営から続く“富岡製糸場の物語”に魅力を感じていたのかもしれない」