第4部・片倉工業の足跡
3・拡大路線 経営の底流に「慈愛」 2006/1/4
繰糸作業をする女性=明治30年代
埼玉県熊谷市に2000年秋、片倉工業熊谷工場の跡地を利用した商業スペース「熊谷片倉フィラチャー」がオープンした。フィラチャーとは製糸場のこと。その一角に同社の歴史を伝える展示施設「片倉シルク記念館」が造られた。
展示の1番目は、初代片倉兼太郎が残した十カ条の家憲。「事業は国家的観念を本位とし、公益と一致せしむること」「雇人を優遇し一家族をもってみること」など理念や事業にあたっての心得を示している。
◎規模日本一
片倉は兼太郎のもと、一丸となって垣外製糸場と共同出荷組合「開明社」を軌道に乗せた。兼太郎は村長職にあったため、代わりに実務を取り仕切ったのは二男の光治だった。
1890(明治23)年、片倉は本格的に事業拡張に着手した。長野県松本市に48釜の松本製糸場を建設。さらに’94年には旧川岸村(現・岡谷市)に、360釜の川岸製糸場を建設した。同製糸場は民間最大で、片倉本家、新家、新宅が協力して全力を注ぐという意味から「三全社」と呼ばれた。
このころには垣外製糸場が160釜、松本製糸場が168釜にそれぞれ成長。3全社と合わせた三製糸場は計688釜で、個人経営の製糸場としては日本一の規模になっていた。
兼太郎は’95年、開明社から独立して片倉組を結成。現在の片倉工業がある東京・京橋に東京支店を設置して、中央に進出した。
日本は日清戦争の勝利に沸き、生糸輸出はイタリアを抜いて、世界2位に躍り出た。片倉組は好況の波に乗って成長し、次々と製糸工場を買収した。不足する繭を確保するため国外にも進出、朝鮮半島でも製糸場を設立している。
拡大した片倉組は1920(大正9)年、株式会社片倉製糸紡績に組織変更。この時、片倉の製糸場は18ヶ所、釜数は計1万1937釜に上った。
片倉組を発展に導いた兼太郎は’17年2月、スペイン風邪で逝去。看病した光治も発病し、後を追うようにこの世を去った。片倉では末弟の佐一が2代目兼太郎を襲名、片倉製糸紡績の初代社長に就任した。
◎データ管理
倉組の成長と歩調を合わせるように、生糸輸出は伸び、’08(明治41)年には中国を抜いて世界一になった。牽けんいん引したのは、片倉組をはじめとする信州・諏訪地方の製糸業者だ。
’11年の「横浜生糸入荷個数相撲番付」によると、横浜蚕糸取引所に集まった生糸は計28万3792 こうり梱で、片倉組は1万5284梱を出荷して横綱の地位を不動にしている。
本県関係では碓氷社(6558梱)が東の関脇。そのほか幕内上位に甘楽社(4860梱)交水社(2927梱)下仁田社(2217梱)が並んでいる。
初代兼太郎研究の第一人者で、市立岡谷蚕糸博物館の嶋崎昭典名誉館長(77)は「片倉の底流にあるのは慈愛。常に正直であるという信頼が成功につながった」とみる。
初代兼太郎は開明社時代、事業をすべて透明化して、寄り合い所帯をまとめ上げた。この時期に始まった徹底的なデータ管理は、片倉発展の土台になった。嶋崎さんは言う。「片倉がどんなに大きくなっても、工場から送られる日報や月報で本社がすべてを把握できる。ここに大きく発展する一番の技術があった」