絹の国の物語

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第4部・片倉工業の足跡

10・後世に伝える使命感 保存 2006/1/12

昨年10月に開かれた感謝のつどい。最後に関係者全員で記念撮影をした
昨年10月に開かれた感謝のつどい。最後に関係者全員で記念撮影をした

「マルジョウ」。片倉工業富岡工場は荷印の(上)にちなんで社員からこう呼ばれ、親しまれている。同工場の退職者が集まった親睦(しんぼく)団体の(上)会は、操業停止後も折に触れて工場を利用してきた。かつての職場に立ち寄って談笑するのは、退職した社員にとって楽しいひとときだった。

昨年10月の引き渡し式には、元社員たちが招待され、旧交を温めあった。(上)会会長の直井幸夫さん(75)=下仁田町馬山=はこの時、久しぶりに繰糸工場に足を運んだ。シートに覆われた自動繰糸機に懐かしさを感じながら、製糸業の灯が消えたことに対する寂しさが募った。


◎維持費18億

片倉は1939(昭和14)年から66年間、富岡製糸場を保存してきた。’87年2月の操業停止後は管理事務所を置き、3人を常駐させて保存にあたった。同社によると、毎年の維持費は固定資産税を含め約1億円。富岡市に移管するまで、計18億円を無償で注ぎ込んだ計算になる。

最後の管理事務所長となった田部井弘さん(63)=桐生市新里町山上=は着任まで、系列のホームセンター店長を務めていた。富岡工場のことを知ってはいたが、「赴任して初めて本当に貴重なものだと知った」と振り返る。

管理で最も注意を払ったのは、水と火だった。雨漏りで建物が傷まないよう、台風、大風、降雪の後、とにかく点検で建物内部を歩いた。外部塗装は十年サイクルで予算を組んだ。田部井さんが九八年に赴任してから、東繭倉庫、繰糸工場、揚げ返し工場の補修を行った。繰糸工場は建物の長さが約百四十メートル。規模が大きくてなかなか手をつけられなかったが、二年がかりで補修した。

一方で、気が休まらなかったのは、工場見学の受け入れだった。区域を限定して見学してもらったが、禁煙を守らない人や、立ち入り禁止区域に入る人が後を絶たなかった。「たばこの投げ捨てで、落ち葉に引火でもしたら…」。田部井さんが見学者を大声で注意することは、一度や二度ではなかった。

田部井さんの工場への愛情は、年ごとに深まった。退職した今、「事故がなくて本当によかった」と胸をなで下ろす。

◎伝統と誇り

況の中、同社が出費ばかりで利益につながらない保存活動を続けられた原動力は何なのか。岩本謙三社長(64)は「企業として負担は大きかったが、やらなければならなかった」と語る。

保存は富岡製糸場を取得した時から同社が背負った使命だったのかもしれない。日本の製糸業をリードしてきた伝統と誇り。そして、創業者と歴代経営者に流れる製糸業への深い愛情。すべてがそろった片倉だからこそ、同製糸場を保存できたともいえる。「片倉の歴史はシルクから来ている。繊維業は今後も大切にしていきたい」。岩本社長は力を込める。

片倉工業の功績について、県世界遺産推進室の松浦利隆室長(48)は「世界最大の製糸会社、片倉工業が所有してくれたおかげで、富岡製糸場の歴史に深みが加わった。工場内に残る資料を寄贈してもらえたら、富岡工場が戦後の復興にどんな役割を果たしたのかもっと明らかになる」と語る。

同社の足跡は、近代化の階段を上る日本の歩みでもあった。富岡製糸場を守り続けた功績は、世界遺産登録運動の広がりとともに語り継がれていくだろう。