絹人往来

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■27・高崎染

高崎捺染協同組合理事長 清水 英徳さん(69)
高崎捺染協同組合理事長 清水 英徳さん(69)

「四百年くらい前から続く歴史と伝統のある高崎の染めを体験してもらう。好きな色を使って自分だけの“芸術作品”を作ってほしい」

昨年十二月、高崎西小で開かれた高崎染の体験学習で、講師役を務めた高崎捺染(なっせん)協同組合理事長の清水英徳さん(69)=高崎市昭和町=は、四年生の児童に向かって呼び掛けた。

子供たちは同組合の会員ら七人から指導を受けながら、木綿の布に筆を使って色を付ける染めに挑戦。「同じ絵でも、その子の個性で全く違った色合いになる。中には、プロが見ても驚くような作品を完成させる子もいる」。清水さんは夢中になって作業する児童たちを優しく見守った。

型紙を使って模様を染める捺染。清水さんは父親が始めた捺染工場を小学三年生のころから手伝ってきた。

「朝四時ごろから仕事が待っていた。工場の脇を流れる水路で反物をゆすぐ作業もあり、冬場は氷を割って水に入った。布を張った板を持ち上げたり、空っ風に吹かれて重さが増した反物を外に干すのは力仕事だった」。笑顔を見せながら、小中学生時代の苦労を思い起こす。

繊維産業を基盤に戦後の復興を遂げた高崎市。長男でもあり、成長著しい家業を継ぐのは清水さんにとって宿命とも言えた。最初は見よう見まねで、捺染の技術をマスターしていった。

「しっかり勉強して学校は出ておけ」。父親のアドバイスで立教大理学部化学科に進み、有機合成を専門に学んだ。卒業後、京都の染織研究所に一年勤務した後、捺染工場を継いだ。「父は自分が教員になりたかったようで、学問にこだわっていた。おかげでこの道に進んでからも視野が広がった。感謝している」

若い時分は染めの技術を徹底して身に付けたが、次第に経営者として営業活動が主体になっていった。

高崎染の特徴は「 誂(あつら)え染め」にあるという。いろんな柄を染めた見本の反物を全国に配り、注文をとってから実際に染めて納める。東日本を中心に、北海道から九州まで全国を飛び回って展示会を開き、自慢の商品を売り歩いた。

「営業をしていても、染めのことを分かっていないとうまくいかない。職人とは別の見方をしないと、売れる商品を提供できない面もある。時代の変化に対応する柔軟さも必要」と振り返る。

もちろん、技術の裏打ちがあってこそ言えることで、一九六九年には全国小紋友禅染色競技会で最優秀賞の通産大臣賞を受賞したこともある。

ピーク時の七〇年ごろは「何でも売れた」といい、捺染の組合にも二十社近くが加盟。花形産業として栄えたが、徐々に勢いをなくし、今では加盟店は八社に減少、実質的に動いている工場はさらに少ない。

後継者不足も深刻だ。「こんな苦労はさせられない」として、自分の代で工場を畳む覚悟の経営者も多いという。

「この伝統的な技術と文化を何とか残していきたい」との思いが日増しに募る。学校で染めの体験教室を開催するようになったのも、そんな考えからだった。同組合恒例の高崎染フェスティバルでも、高崎捺染による作品の展示に加えて、染めの教室を開いている。

「この伝統文化を後世に引き継ぐのが使命だと思っている。まだ工場が残っているうちに、型紙や道具、反物などの資料を集め、保存管理する施設もつくりたい」

(小渕紀久男)

◎ネクタイなど新分野も開拓

捺染(なっせん)は型付け染めとも呼ばれ、色糊(のり)で模様を印刷する染色方法。型紙を用いることでより繊細な模様、華麗な色彩を染められるようになり、量産も可能になった。

高崎の型紙捺染は明治三十年代から始まったという。豊富な高崎絹を背景に急速に広まり、「高崎染」は「京染」「江戸小紋」「加賀友禅」と肩を並べる産地に育った。戦争でいったんは下降したが、すぐに復興。一九五四年には高崎捺染協同組合が設立された。

高崎染の付下(つけさ)げ類は、明治時代から使われてきた手描き友禅染に加えて、型紙を用いて今まで以上に繊細な部分を表現できるようになったのが特徴。振り袖、留め袖、訪問着、絵羽織はその代表という。時代の移り変わりに対応し、着物の技術を用いて、テーブルセンター、正絹小紋、ネクタイなどの新分野も開拓してきた。

(2006年1月8日掲載)