絹人往来

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■45・きもの

「治田呉服店」 治田 元雄さん
「治田呉服店」 治田 元雄さん

五月下旬、着物姿の男女約二十人が富岡市内を歩いた。県内の愛好家を中心に集まった一行の中には東京から出向いた女性も。目当ての旧官営富岡製糸場を訪れ、心地よい草履の音を響かせながら赤れんが建物群を興味深そうに見ていた。

製糸場の価値を理解してもらうとともに、染織・和装文化の知識を身につけてもらおうと、特定非営利活動法人(NPO法人)「きものを着る習慣をつくる協議会」(本部・京都市)が主催した「きものde探検隊in富岡製糸場」。企画した同協議会県富岡支部長の治田元雄さん(69)=富岡市富岡=は愛用する江戸小紋の着物に袖を通し、妻の和美さん(62)とともに参加した。

「皆さんが着て良かったと感じていた。普段身に付けているジーンズやTシャツのように、身近なものということを思い出してほしい」

元雄さんは、一九一〇年に創業した呉服店の三代目。祖父・菊五郎さん(故人)が中心市街地の宮本町通りに治田糸店を開き、跡を継いだ父・松雄さん(同)が上町通りに店舗を移転したのを機に治田呉服店へと名称を変えた。明治末期から続く老舗を任され、現在は妻と一緒に呉服販売から衣装レンタルまで幅広く取り扱っている。

元雄さんは大学を卒業した後、二年間の会社勤めを経験した。だが、五人兄弟の長男ということもあり、跡継ぎを打診する親の期待に応える形で退社。その後、衣料品関係の会社で見習いを三-四年間して帰郷した。

初めのころは家業の手伝い程度だったが、徐々に仕事の魅力にはまっていった。三十代半ばの時、仕事にかける情熱にかき立てられ行動に出た。

「本物の着物をお客さんに知ってもらい、売りたい。そのためには作る人の言葉を聞き、そのままお客さんに伝えたいと思った」

“本物”を求めて、大島 つむぎ紬の産地である奄美大島へと飛んだ。織元を訪ね、気に入った二つの反物を購入。「どういうものか自分の目で見たかった。ほしいと思って反物を買ったら、飛行機代は無くなっていた。でも、あの時出掛けたことがけがの功名になった」。商売に目覚めるきっかけとなった思い出話を笑って振り返る。

この時以来、染織関係の場所に妻と一緒に足を運ぶようになった。山形県では紅花染の工房を訪れ、阿波藍あい製造技術無形文化財の佐藤昭人さんに会うため徳島県まで出掛けたこともある。これまでに訪れた場所は北から南まで全国で十カ所近くになった。

十年ほど前に専門家を招いて藍あい(あい)染展を開催、数年後には伝統工芸桐生織に携わる職人を呼び草木染体験会を行った。本業の呉服販売に力を入れざるをえないが、何よりも日本が誇る和装文化を広めたいという気持ちは強い。

「昔の人はいつも着物を着ていた。和装だからといってフォーマルである必要はない。気楽に簡単に着られるなら、木綿でできたものだっていい」

元雄さんが日常的に和装をするようになったのは五、六年前。「協議会理事長の中塚一雄さんに『売っている人間が着ないでどうする』と言われましてね。着だしたころは恥ずかしさがあったが、次第に意識しなくなった。いまは毎日、洋服を着るように着物に親しんでいる」と胸を張る。

「きものde探検隊」は今後、県内各地に出掛けてさまざまな街中を歩いていく予定だという。「着物は、ついこの間までみんなが着ていた。先輩たちのように普段からくつろぎの装いとして気楽に身にまとってくれればいい。日本人だからね」

今では生活と着物は切り離せない関係にある。襟元を正すそのしぐさもすっかり様になっている。

(千明良孝)

◎全国で133支部が活動

NPO法人「きものを着る習慣をつくる協議会」は二〇〇四年二月、「きもの」が着やすい環境づくりを目指して設立された。富岡、前橋、高崎、桐生の四支部をはじめ、全国で計百三十三支部(五月末現在)が活動している。

和装文化の普及を図るためにさまざまな行事を開催。歩き慣れた街中を和装で歩く「きものde探検隊」のほか、タンスに眠っている着物を出して身につけるなど、日常的に和装に親しむ習慣づけを目指して活動を展開している。

同協議会の中塚一雄理事長によると、全国的に各行事への参加者が増えており、若者の間で和装に関心が高まりつつあるという。本県における旧官営富岡製糸場の世界遺産登録推進にふれ、「群馬で養蚕を復活させてもらい、着物の内需拡大のためにも頑張ってほしい」と、養蚕県復活に期待している。

(2006年6月11日掲載)