■46・養蚕授業
ぐんま島村蚕種の会 関口 政雄さん
〝蚕の村〟肌で感じて
「蚕を飼って楽しかったことは何ですか」「蚕の蛾が(が)は飛びますか」-。
伊勢崎・境島小学校で十三日、「ぐんま島村蚕種の会」の関口政雄さん(73)が四年生から質問攻めに遭っていた。「楽しいのは苦労して桑をやってきた蚕が繭を作るとき。苦労を忘れてしまうほどです」。そう答えながら、養蚕への特別な思いを語った。
関口さんは二〇〇一年から、同校で養蚕を指導している。本年度は複式学級の三、四年生十四人が生徒だ。
掃き立てを行った五月二十三日には、毛子(けご)と呼ばれるふ化したばかりの蚕を前に、飼育のポイントを説明した。いま蚕は五齢。旺盛な食欲で桑の葉を食べている。天候が順調なら、今週末に糸を吐き、繭を作る。
生命の神秘を学ぶ教材として、蚕ほど優れた教材はないと話す。卵から幼虫、さなぎ、蛾と短期間で姿を変える上、品種改良のため、逃げる心配もない。
関口さんが見守る中、子供たちは蚕を手に取り、小さな生命の感触を確かめる。ちょっと苦手な子供もいれば、蚕をほおで温めてあげる子供もいる。蚕との“距離”はそれぞれだが、生命を大切にする心は確実にはぐくまれていると思う。
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同時に知ってほしいのは、島村の歴史。「この村はお蚕で生きてきた。その歴史を今の子供たちにぜひ知ってほしい」と力を込める。
島村で生まれた。父・房良さん(故人)は島村蚕種協同組合で、蚕種作りの責任者。定年後も組合の委託を受け、地域で一番最後まで蚕を飼った。「おやじは蚕の中で生まれ、蚕以外のことを知らない。体調を崩しても春蚕が始まると、体がしゃんとして元気になるような人だった」と語る。
安中蚕糸高校から東京農工大に進み、育蚕学を学んだ。が、卒業後は蚕種製造ではなく、県職員として養蚕を支える道に進んだ。藤岡蚕業事務所を振り出しに、県蚕糸課長や農政部技監などを歴任。養蚕の裏方として尽力してきた。
一九六八年、本県は二万七千四百四十㌧の集繭量を誇り、最盛期を迎えた。しかし、その後の衰退を止めることはできなかった。「養蚕を何とか守りたい」。そう願って努力したが、桑畑が次々と宅地に変わっていった。「経済活動だから駄目とは言えないが、生産力の高い桑畑が開発されるのを見るのは悲しいことだった」と振り返る。
退職後は、古里のために汗を流している。旧官営富岡製糸場の世界遺産登録運動で、島村に再び脚光が当たるようになり、史跡巡りなどの見学者も増えた。「蚕種の島村」を発信する核が必要だと感じていた。
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昨年十二月、「養蚕新論」を残した田島弥平の子孫、田島健一さんを会長とする「ぐんま島村蚕種の会」発足に中心メンバーの一人としてかかわった。会員は五十四人。会では島村の歴史を学ぶとともに、養蚕農家群の保存に取り組んでいる。今年も養蚕農家一軒が取り壊された。いま声を上げなければ、島村の風景は消えてしまう。危機感が地域を結束させた。
関口さんには夢がある。それは一面の桑園を復活させること。「昔は桑畑が緑の海のようだった。昔にタイムスリップしたような緑の海をもう一度見たい」。養蚕が盛んだった島村の姿を取り戻したいと願っている。
◎病気の予防法普及に尽力
蚕種で島村が栄えた背景には、欧州でまん延した微粒子病の影響がある。微粒子病は、フランスの微生物学者ルイ・パスツールが一八六七年、原因を突き止め、予防法の基礎を築いた。
日本では、佐々木長淳が七三(明治六)年、ウィーン万国博覧会に出席後、イタリアで微粒子病から蚕種を保護・選別する方法を学び、国内での普及に努めた。
佐々木は新町屑(くず)糸紡績所の建設にもかかわったことで知られる。欧州視察の成果として、明治政府に紡績工場の設置を献策。自ら建設用地を視察して、旧新町に決めた。紡績所新築係長にも任命され、建設を指揮している。
一方、蚕種直輸出のため島村からイタリアに渡った田嶋啓太郎も滞在中、微粒子病の検査法を学んだ。顕微鏡七台を持ち帰り、予防法普及に貢献している。
(2006年6月18日掲載)