絹人往来

絹人往来

指導員 農家の生活安定に奔走 伊与久 民男さん(80)  沼田市下川田町 掲載日:2008/12/02


指導員時代に県養蚕農協連合会から受け取った表彰状を手にする伊与久さん
指導員時代に県養蚕農協連合会から受け取った表彰状を手にする伊与久さん

 1952年から33年間にわたって、利根沼田養蚕連合会の指導員を務めた。担当した地区は沼田市薄根地区を皮切りに、旧新治村、昭和村、旧水上町など利根沼田の広範囲に及ぶ。
 自宅が養蚕農家だったことから、前橋市の県蚕業講習所で養蚕の基礎を学んだ。卒業後、講習所の先輩に頼まれて、指導員の道を選んだ。
 「当時は戦後の混乱期がやっと収まったころ。安定していて家から通える場所に勤めたいと思っていた。農家が養蚕で生活できるようにと、春先から秋にかけて各農家を回ってアドバイスした。集落単位で飼育方法の講話もした」
 最初に担当したのが薄根地区。赴任してすぐに共同飼育所の立ち上げに尽力した。
 「当時は稚蚕飼育から出荷まで個人でする人がほとんど。生産規模の拡大など共同飼育の良さを知ってもらうために各農家を説得して回った」
 飼育所ができてからも、しばらく泊まり込みで蚕の世話をした。飼育所では最大3500箱を飼育し、出荷も年3回のペースで行った。
 「昼間は桑が軟らかくなるので夜中に与えた。養蚕期は寝る暇もないほど忙しかった。春先は桑が少ないので、前橋や埼玉まで買いに出掛けた。忙しさを見かねた農家の方に家に呼ばれて、朝食をごちそうしてもらったりもした」
 旧新治村を担当していたころ、ある農家の妻が自殺してしまったことがあった。汚染された桑を与えて、蚕が大量に死んだためだった。
 「『後で稚蚕を分けてやる』と言い聞かせたが、一人で思い悩んでしまったようだ。農家にとって養蚕は貴重な現金収入。それだけに繭の出来は生きるか死ぬかの大問題だった」
 退職した1985年に大日本蚕糸会の指導功労賞を受賞した。その後、自宅で養蚕を続けたが、5年ほどでやめて枝豆栽培を始めた。
 「農薬などの影響で、良い桑を栽培できる場所が少なくなり、枝豆に切り替えた。でも、養蚕にかかわったおかげでいろいろな経験ができ、最後に賞もいただけた。自分の仕事がこうした形で認められるのはうれしい」

(沼田支局 金子一男)