絹人往来

絹人往来

形見 母の温かさ伝わる反物 金井 澄江さん(61) 榛東村広馬場 掲載日:2007/3/21


40年前に母から贈られた絹織物を大切に保存している金井さん
40年前に母から贈られた絹織物を大切に保存している金井さん

 かつての榛東村では、養蚕農家の母親は少しずつ糸を蓄え、冬場の機織りの際に反物を織り、娘の成人や結婚に備えた。三男五女の末っ子で、こうした贈り物を受け取った最後の世代だ。
 「小学3、4年ごろまで、家に帰ると必ず2階からギッタンバッタンと母が機を織る音が聞こえてきた。私を生んだのは40歳のころ。体力的にもだんだんきつくなって、そのぐらいの時期を境に辞めてしまった」
 前橋に製糸場ができたこともあり、村内の農家から機織り機は次々と姿を消した。
 「でも蚕の世話がなくなったわけじゃない。朝になると家族のほとんどが桑の葉を取りに行く。その間に私と母は“こしりとり”と言ってかごの中の蚕のふんを始末して回った。高校に通いながらだったので、いつもバス停まで走っていった」
 成人式を迎えたとき、母は機織りを辞めて10年経過していたが、白地の反物を用意していてくれた。
 「23歳で結婚した時も4反を渡されて、染物屋で好きな柄を選んだのを覚えている。末っ子だから、自分の分はないかもしれないと思っていたのでうれしかった」
 自宅を今春建て直すことになり、荷物の整理をした際、その着物が出てきた。
 「もう着ないことは分かっていたし、捨ててしまおうとも思ったけど、思い出の品なのでそれはできなかった」
 母は3年前に98歳で亡くなっており、形見に思えたという。
 着物は繭をほどいて糸を引くところから、すべて母の手で作られた。手作業のため糸の太さがまちまちで、所々平らでない部分はある。しかし、裏地にも正絹が使われており、材料を惜しまず丁寧に作られたことが分かる。
 「自分も一男一女の親になって大変さが分かった。夜なべをしながら、娘全員に反物が行き渡るように働いていたんだから、母は本当に偉かったと思う。子供のころは釜で繭を煮るにおいが嫌いだったけど、今ではそれも懐かしい」

(渋川支局 田中暁)