絹人往来

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共同飼育場 協力し合い、収量競う 清水 泰治さん(82) 安中市松井田町小日向 掲載日:2007/10/12


共同飼育場で使った飼育用の網の前で語る清水さん
共同飼育場で使った飼育用の網の前で語る清水さん

 子供のころから家の養蚕を手伝い、26歳になった1951年から本格的に取り組んだ。
 「地域の経済はすべて蚕中心に回っていた。小日向地区の養蚕農家100世帯余りが参加して、63年に稚蚕の共同飼育場を作った。設立当初から携わり、70年からは飼育主任を任された。それぞれの農家で育てるより効率的にできた」
 飼育する量によって割り当てを決め、交代で管理に当たった。室内の温度を一定に保つため、泊まりがけの作業になることもあったが、楽しい思い出が多い。
 「さながら農家同士の社交場だった。飼育場で一緒にごはんを炊き、まさに同じ釜の飯を食いながら作業した。皆で交流できるのがとにかく楽しく、農村らしい農村の風景があった」
 繭の相場もよかった時期で、勢いがあった。
 「活力を入れようと、エイトトラックのカラオケセットを置いたこともあった。作業の合間に歌いながら、わいわいやった」
 力を合わせる一方で養蚕農家同士、ライバル意識もあった。
 「同じ飼育場で育てた稚蚕を、どれだけ大きく育てられるかを競った。出荷時期になると、集荷場所の公民館前には繭が山と積まれた。それぞれの農家がどれくらい収繭量があったか、比べ合ったものだった」
 共同飼育では、特に病気対策に気を使った。
 「養蚕は飼育環境と餌の桑、病気対策が大切と言われていたが、環境整備や桑の生育に比べ、病気対策は目に見えない分気掛かりだった」
 病気がまん延し、飼育場が存続の危機を迎えたこともあったという。
 「ウイルスによる病気や菌によるものとさまざまあり、消毒など気を使った。上蔟ぞくの時期になってもまぶしに入らずそのまま死んでしまい、悔しい思いをしたこともあった」
 病気対策が進み収量が安定すると、皮肉なことに繭相場は下落傾向となった。
 「30年ほど前のピーク時には、1キロあたり2400円ほどで出荷していたが、閉鎖するころには半額にまで下がっていた」
 やがて養蚕農家が減り、小日向の共同飼育場も91年に閉鎖した。

(安中支局 正田哲雄)