絹人往来

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裏絹 生涯を捧げた天職 江利川 新之助さん(99) 前橋市大利根町 掲載日:2006/07/15


愛用のはさみだけが残った。久しぶりに取り出した
愛用のはさみだけが残った。久しぶりに取り出した

 「よく仕事し、よく遊んだ。13の時からこの仕事をして、95ぐらいまで現役だったんだ。来年で100になるけど、ずっと、やってこられた。ただ、それだけで幸せなことだろう」
 しっかりした言葉で、1世紀にわたる人生を振り返る。シルクは生涯を捧(ささ)げた天職だった。
 熊谷の農家の生まれ。尋常小学校を卒業後、近くの商店に奉公に出されたが、1年で逃げ出してしまった。
 「帳面付けがいやで、辛抱できなかった。『職人になって腕を磨けば、一生食っていける』。そんなことを考え、一人で汽車に乗って、高崎駅までやって来た」
 身一つで飛び込んだのは、和服の裏地に使う裏絹を製造する精練工場。高崎は当時、全国の生産量の半分を占める裏絹の一大産地だった。
 「仕事は達者な方だったから、若くして番頭になった。染め方でも、口で説明できないこつってもんがあるんだ。30人ぐらいの職人の面倒を見たかな。給料は昭和の初めごろで、月に30円ぐらい。大卒の初任給が確か16、7円で、随分よかったね。腕次第で金になる時代だった」
 仕事は途切れることなくあった。戦時中に軍需工場に徴用された際も、夜は本業に戻った。
 「大みそかも遅くまで働き、正月の2日は問屋に初荷を納めに行った。大変だったけど、街はにぎわっていて、おもしろかった。映画は顔パスだったし、柳川町にもよく通った。アスファルトになった前橋新道(旧県道前橋高崎線)を、ローラースケートで突っ走ったこともあった」
 定年退職後は前橋に建てた自宅で、裏絹を裁断して製品にする仕上げの作業を手掛けた。
 「仕事は昔からの付き合いの問屋からきた。パートも雇って、割と大掛かりにやった。請求書なんか出さなかったけど、決まって毎月みそかには代金が振り込まれた。信頼がすべてだね」
 妻を早くに亡くし、2人の子供に相次いで先立たれた。問屋は廃業。自然の流れに従った。
 「今でもね、時々、夢を見るんさ。仕事の夢。問屋とけんかして、ハッと起きたり。もう、仕事はしなくていいのに。やっぱり、好きなんだろうな」

(前橋支局 阿部和也)