絹人往来

絹人往来

着付け 絹の着物で体丈夫に 山口 則子さん(63) 高崎市金古町 掲載日:2007/09/19


着付けを指導する山口さん(左)
着付けを指導する山口さん(左)

 40年間にわたって着付け指導をしている。多くの弟子を抱え、関係する教室は県内で80を数える。「着物を生活の1部にしてもらいたい」との思いが活動の原動力。着物文化のすそ野を広げようと、ボランティアで小中学校の出張教室にも頻繁に行っている。
 絹は幼いころから身近な存在だった。実家の近くは養蚕が盛んで、親類の家で養蚕を手伝うのが日課だった。虫嫌いだったが不思議と蚕の世話は楽しかった。また、体が弱いのを心配した両親から絹の着物を部屋着として与えられた。
 「虚弱体質だったので学校から帰るといつも着物に着替えていた。毎日、絹に包まれたことで体が丈夫になったと思う。天然繊維の絹が体に悪いわけがない。ちょっとぐらいの病気なら着物を着ていれば治ると信じている」
 高崎市内の高校卒業後、金融機関に勤めたが「人に喜ばれる着付けを仕事にしよう」と思い、本格的に勉強した。前橋市内の専門学校を卒業後、都内の学校にも進んだ。当時は専門的な教育を受けた人が少なかったため、着付けを指導する立場になるのは「必然の進路」だった。
 着物に親しむ若い人が減っているのと、殺伐とした世情は無関係ではないと感じている。
 「高価なものと敬遠されているけど、毎日着ることを考えると決して高い買い物ではないし、手直しすればいつまでも着られる。ものを大切にする心がはぐくまれる。そして何より着物に体を包まれていると、ゆったりした気持ちになる。実際に教室の生徒さんは人格的に優れた人ばかりだし、着付けを指導した子供はみんないい子になる。着物は人間形成の上でも必要だと思う」
 生まれ故郷の金古町では養蚕農家が少なくなり、桑畑も随分減った。養蚕を身近に感じる世代が少数派になりつつある。
 「日本経済が発展したのは絹のおかげ。特に群馬はそうだと思う。蚕から天然繊維がとれ、桑が土地を守ってくれた。絹産業はこれからも絶対に必要だと伝えていきたい」

(高崎支社 多田素生)