絹人往来

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回転蔟 大忙しの作業、楽に 熊倉 政男さん(76)  館林市北成島町 掲載日:2008/10/31


当時使った蚕具を手に「養蚕、乳牛飼育に米作り。一通り荒波にもまれた」と話す熊倉さん
当時使った蚕具を手に「養蚕、乳牛飼育に米作り。一通り荒波にもまれた」と話す熊倉さん

 養蚕があまり盛んでなかったと言われる館林地区でも一時期は蚕で生計を立てていた農家があった。成島町近辺にも繭から糸を紡ぎ、反物に仕立てるまで、すべてがこなせる女性がいたという。
 「昭和の初めごろは、近所でも農家の副業で機織りをしていた。娘を嫁に出すときは自分で織った反物を持たせるようなこともしていたようだ。うちでもばあちゃんが糸取りや機織りをしていたと記憶している」
 最も鮮明に覚えているのは上蔟(ぞく)作業。春と秋には近所に手伝いを頼んで、大急ぎで行った。
 「蚕は桑の食べが遅くなり、体が透き通るようになると糸を吐き始める。一匹一匹つまみ上げて、繭を作る蔟(まぶし)に移してやるんだが、これが忙しい。女が拾い集めたのを男が蔟の上にまんべんなく広げる。のんびりしていると桑の中で繭を作っちゃう。総動員だった」
 後に回転蔟が使われるようになると作業の様子はだいぶ変わった。
 「この蔟は段ボールでできた升目の一つ一つに蚕を入れて、繭を作らせる。蚕が自分で動いて重さが片寄ると自然にくるっと回ってうまい具合に一匹ずつ升目に収まるようになる。繭を作る前に出すふんも下に落ちるし、出来上がった繭を取り出すのも楽。良く考えられていた」
 作業効率を良くしようと、蚕具はさまざまに工夫されたが、桑摘みなど力仕事を伴う作業はあまり軽減されなかった。場所を取るのも養蚕のネックだった。「蚕を卵からかえす時は温度を一定に保つために座敷の周囲を目張りして人間は締め出された。シーズン中はお蚕さまに占領されてしまい、居場所がなかった」
 成島地区では1950年代後半から米作りが盛んになり、土地改良も行われて桑畑が姿を消した。熊倉家は地区で最後まで残った養蚕農家。畜産と米作りなどと並行して75年ごろまで続けたが、主力の親が引退したのに伴って廃業した。
 「養蚕が衰退した1番の理由は価格と労力が見合わなかったこと。農家も生活がかかっているから収益が伴わなければ続けられない。もし残そうと考えるのであれば、何らかの援助の仕組みを作らないといけない」

(館林支局 坂西恭輔)