機織り 愛情たっぷり竹刀袋 津久井 富雄さん(77) 桐生市相生町 掲載日:2007/10/02
竹刀袋を手に「孫が成人するまで織機を動かしたい」と話す津久井さん(右)と照子さん
帯裏で仕立てた竹刀袋は黒の生地に模様のついた金色が映える。袋の底は破れないよう厚くした。剣道に励む孫の優花さん(14)と陽光君(12)にプレゼントした。世界で唯一の愛情たっぷりの贈り物だ。
「孫は練習熱心で竹刀をよく出し入れする。袋はすぐ壊れちゃう。今使っているのは3つ目。また今度、新しいのを作ってあげたい」
農家に生まれ、戦争中は太田の飛行機工場で働いた。16歳で終戦を迎え、戦後は職を変えながら生きた。やがて桐生の織物に行き着き、1955年、地元の機屋に弟子入りした。5年間の修業を経て、自分で工場を持った。
「中古の織機2台だけだったけど、平均の月給が1万2千円ぐらいだった時代に1カ月16万円ほど売り上げた。5、6年かけて新しい織機をそろえた」
昔は「お召し」を中心に、おひな様用の「雛(ひな)生地」、喪服に使う生地などさまざまな仕事に取り組んだ。生糸は湿度の変化に敏感で、織機の調整は日課だった。次第に機械の修理もできるようになった。
「生糸は生きもの。織物は理屈なしに、きれいなら売れる、きれいじゃないと売れない。賃料や時間にこだわらず、仕事をしてきた」
できた製品は「質が良い」と評判だった。時代の移り変わりで生産の中心は帯へ。今は絹100パーセントのスカーフなども手掛ける。
「国産の絹はムラがなく、色、細さもこの上ない。最近は日本のお蚕が減って外国からの輸入生糸が多いけど、良い製品は日本産じゃないとできない」
同じ町内に50数軒あった織物屋は、現在は自社を含めて3軒に。
「工場の前を通る人が『シャンシャン』という織機の音を懐かしみ、見学に来ることもある。昔は町内中に心地よい機織りの音が響いた。70歳で引退しようと思っていたが、孫が20歳になるまでは仕事を続けようと思っている」
織物との半世紀は妻の照子さん(72)と2人3脚の日々でもあった。
「機械好きの自分が織機の手入れをし、妻は切れた経糸をなおした。妻は1時間に1000本の糸を撚(よ)れる。この商売は自分1人でも家内1人でも続かなかった。きっと、良いコンビだったんだね」