絹人往来

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大工場 最高級の細糸生産 築比地 敏之さん(81) 館林市城町 掲載日:2006/05/26


「今でもたまにモスリン事務所に行く」と話す築比地さん
「今でもたまにモスリン事務所に行く」と話す築比地さん

 館林市役所のすぐ東側に広々とした空間がある。13年前まで、ここに「赤れんがとのこぎり屋根」で親しまれた大規模な工場があった。
 毛織物を生産する上毛モスリンの工場として1908(明治41)年から3年かけて建設。共立モスリン、日本毛織、中島飛行機と変遷し、47年から神戸生絲(きいと)館林工場に。輸出用の生糸を生産するこの工場で、築比地敏之さん(81)は工場長を務めていた。
 「工場ができたのと合わせて入社し、それから十五年くらい総務や経理をやった。農家から繭が届くのは春と夏、秋の年3回。中でも6月が一番忙しかった。多いときは1日でトラック50台分。ひとつきで年間の原材料の六割が集まった」
 取引のあった養蚕農家は群馬、栃木、埼玉の3県にまたがる。農家に支払う代金の融資と振り込みで、毎日のように銀行に通った。
 同工場で生産した生糸は主にフランスに輸出され、婦人服になった。ファッションに敏感な同国の女性たちを満足させるため、当時としては一番細い15デニールの生糸を生産した。
 「ここの生糸は最高級。21デニールが多かったが、5本の糸をよりながら1本の糸を作る15デニールも作った。技術が難しく内地では50デニールくらいが主流だったが、出来たときの風合いが違う。肌触りがいいし、きれいに見えるところも好まれた」
 工場長は10年間にわたり務めた。工場の稼働時間は午前5時から午後10時まで。従業員の8割が中学を卒業したばかりの女性だった。
 「仕事がきつくても楽しく過ごせるよう心掛けた。荷物を入れていた木箱でバレーボールコートを作って試合をしたり、目標を達成したら牛乳を配って皆で飲んだ。皆、はりきってくれた」
 工場は2交代制で、お昼を境に交代した。従業員が働きながら学べるように、関東短期大に特別カリキュラムのクラスを作ってもらった。初等教育の免許を取得し、教職の道に進んだ人も多い。
 旧工場内の木造事務所は県内有数の貴重な擬洋風建造物として県重要文化財に指定され、移築保存されている。
 「一緒に働いた人たちとは今も3年に一度、集まっている。皆で旧上毛モスリン事務所に行くと当時のまま。工場が取り壊されたときは寂しかったが、事務所だけでも残って良かった」

(館林支局 田島聡子)