絹人往来

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婦人部長 全国訪ね飼育法学ぶ 今井つる子さん(80) 川場村川場湯原 掲載日:2007/08/24


唯一自宅に残っている毛羽取り機を手にする今井さん
唯一自宅に残っている毛羽取り機を手にする今井さん

 1960年、川場村の農協養蚕婦人部長に就任してから30年間、利根沼田地区や県の養蚕婦人部長などを歴任した。新しい蚕の飼育法など技術を学ぶために、全国各地の会議や研修会に参加してきた。
 「北は青森県から、南は沖縄県まで飛び回った。蚕の育て方でも地域によって微妙な違いがあった。養蚕県群馬から来たというと熱心に話を聞いてくれた」
 実家は代々続く養蚕農家だが、嫁いでから本格的に取り組むようになった。最盛期は朝から晩まで、近所の人の手まで借りるほどの忙しさだった。
 「長年続けてこられたのは蚕が好きだったから。透き通った白い体に面白い顔の模様。本当にかわいかった」
 30年ほど前、静岡県で行われた養蚕婦人部の全国大会で、飼育体験を発表して最優秀賞に選ばれた。受賞を記念し、村でも講演した。
 「全国大会の時は緊張で胸がいっぱいだった。同じ苦労を知っている村内では気軽に話せ、みんながうなずいたり、質問してくれたのでうれしかった」
 繭の値段が下がった際、養蚕婦人部で繭を使った人形や正月飾りなどいろいろな工作に取り組んだ。
 「楽しいことがあるからつらい仕事も頑張れる。おこさまといって大事に育ててきた繭を大切に使いたかった」
 養蚕婦人部の研修旅行で中国も初めて訪れた。現地の農家で飼育法や繭の加工法を見学し、日本と異なる技術に目を見張った。
 「中国の繭糸は染めなくても金色に輝き、とても美しかった。しかし、飼育法の違いからか、日本の糸よりも耐久性が低く、品質にばらつきがあるようだった。研修ではあらためて日本の技術の高さを感じた」
 1986年、夫が農協組合長に就任したのをきっかけに養蚕をやめた。常勤の組合長では、朝から晩まで一緒に蚕を育てることが難しくなったからだ。
 「道具を処分するときは悲しくてやり切れなかった。情熱をかけて仕事ができたのは今でも誇り。掃き立ての時のどきどきする感じは今でも忘れられない」

(沼田支局 田島孝朗)