絹人往来

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二人三脚 不休にほうび「優等賞」 志賀 伸一郎さん(64) 沼田市柳町 掲載日:2008/01/22


思い出の賞状を手にする志賀さん夫婦
思い出の賞状を手にする
志賀さん夫婦

 1992年の沼田市農業まつりで、妻の直子さん(64)と2人3脚で生産した繭が「大きく品質が高い」と評価され、優等賞に選ばれたことが1番の思い出になっている。
 「真剣に蚕と向き合わないと良い繭は取れない。夫婦2人の今までの努力が認められたのだと思いうれしかった」
 中学校卒業後、家業の農業を継ぐため、田や畑の管理など両親の手伝いをするようになった。
 「東京で働いてみたいと思ったが、長男として、家業の農家を継がなきゃいけないと思う気持ちの方が強かった。分からないことばかりだったが、両親の背中を見て仕事を覚えていった」
 県が利根沼田地区の養蚕後継者を対象に開いていた「蚕桑研修会」に参加し、30人余りの仲間とともに1年間、桑の仕立て方や蚕の育て方など実技と学科で基礎を学んだ。
 1969年、直子さんと結婚。家族4人で協力して、多いときは年に5回蚕を育てて、1トン近くも繭を収穫した
 「春が来ると、また今年も戦争だと思った。蚕が繭を作り始める一週間から10日前は、朝暗いうちから夜遅くまで、休む暇なく蚕に餌をやった」
 父と母が相次いで亡くなり、78年に後を継ぐことになった。一家の中心で働いていた両親を亡くし、収穫量が大きく減った。
 「田んぼは全部任されていたが、養蚕は父がすべて仕切っていたので、仕入れや出荷など細かいことが分からなかった。身近で父の手伝いをしていた妻がいなかったら、大変だった」
 落ち込んだ収穫量を増やそうと84年、2階建ての作業場を母屋の隣に建てた。効率が上がり2人だけで、年間約800キロも収穫できるようになった。
 「気を抜いた仕事をすると、すぐに病気や寒さで死んでしまう。養蚕に大切な換気や温度管理は、親の働く姿を見て身に付けた長年の勘が教えてくれた」
 価格の低迷を受けて、10年ほど前に養蚕を辞めたが、今でも夫婦で農作業に出ることもあるという。
 「無我夢中になって打ち込めたのも、夫婦で蚕が好きだったからだと思う」

(沼田支局 田島孝朗)