読者から「絹の記憶」 工場に誇りと熱気 掲載日:2006/07/19
養蚕、製糸、織物にかかわる体験記「絹の記憶」が続々と寄せられています。一人一人の心に刻まれた貴重なエピソードがつづられ、「シルクカントリー群馬」の歴史を伝える証言となっています。2回にわたり、読者の文章、写真を紹介します。
◎生糸を捻るきれいな仕事 高田イネさん(83)東吾妻町大戸
新前橋駅近くに群馬社という大きな製糸工場があり、遠くからでもわかる高い煙突が建っていた。小学校卒業間近になるころ、「募集人」なる人が「娘を工場へやらないかい」と言ってきた。姉が先に工場に行っていたので、心配なく寮に入り、3年ほど仕上げという仕事につかせてもらった。
生糸を捻(ねじ)る目方を量るきれいな仕事。糸引きは、一日中煮た繭の中に手を入れているので、手がふやけ痛々しい作業のように思えた。黄色の繭もあり、白い繭よりちょっと太めのように見えた。
「あの人は節ができたという」糸の通る振り子をきれいにしておくことだと。節が出ると、教婦が工場の中央で注意するのを聞いた。小枠の糸を下ろす時から番号札がつく。それが名前である。
1年に1回くらい、組合員が糸を引いてる様子を見に来た。角の釜には成績のよい腕のよい人が位置している。姉もいつも角の釜にいた。教婦にもかわいがられ、ねたまれ「最高さんは違う」など言われた。
新潟方面の方が多かったようで、寮も何棟もあった。組合員が1万人もいたとか。出来た繭を荷受けや乾燥の時など外部の人も入り、広い場所もものすごい人、繭の量だったのを思い出す。働いた金は募集人が親元に送った。
◎丸登製糸
1915(大正4)年、前橋市萩小路町(現前橋市国領町2丁目)に丸ト組製糸合名会社前橋製糸所として開設。大正期、前橋屈指の製糸工場に発展した。81年まで操業。
◎懐かしい日々今でも夢見る 岡本文代さん(71)高崎市新町
昭和20年代から30年代、11年間にわたり埼玉県本庄市にあった製糸工場に勤務した。入社当時の社名は「三光蚕糸」だったが、その後「埼玉製糸」に。30年代に入って「埼玉繊維工業」と変わっていった。
繰糸、再繰、仕上げと現場を一通り体験後、繊度(デニール)、糸条斑(セリプレーン)、糸目(目方)の検査を計測や計算で算出、繰糸現場で働く人たちに伝える仕事に従事した。
写真は糸目検査時代。右側奥が私、手前2人、左後の立っている人が「捻(ねじ)り」という再繰された生糸を出荷前の状態にされたものを計測計算していた。
購繭期は寮に泊まり、朝早くから夜遅くまで仕事にかかわった。そんな日々が懐かしく、今でも夢を見る。
計算用式メモを書いて指導してくれた上司も昨夏、他界された。時代が移り変わっていくが、携わった記憶は生きている限り残る。
◎埼玉製糸
1950年設立。54年、埼玉県本庄市の三光蚕糸を吸収合併。57年に埼玉繊維工業と改称。94年まで製糸事業を続けた。
◎故障させずに蒸気を供給 奥野亥之吉さん(83) 前橋市下小出町
上毛かるたに「県都 前橋 生糸(いと)の町」というのがありますが、私が若かったころはそれこそあそこにもここにもという程製糸工場があったのを覚えています。
私の家は小さな農家でしたので、家計を助けるために33歳の時、ある人の紹介で市内の国領町にあった丸登製糸に勤めることになりました。とにかく大きな会社で、敷地も1万坪もあり、創業時には従業員が600人くらいいたとのことでした。私が勤め始めのころは機械化が進んで120人くらいだったと思います。
私の仕事は初めは雑役でしたが、間もなく資格を取得してボイラーの仕事をするようになりました。燃料は主として石炭でしたが、やがて重油を使用するようになりました。ボイラーは水を蒸気に変える機器です。蒸気は工場の原動力で、これが無ければ生繭の乾燥も従業員のご飯を炊くことも繭を煮ることも出来ません。ボイラーが故障すれば工場全体がストップしてしまうのです。そういう大事な仕事を一度も故障させること無く、定年まで続けることが出来ました。
◎群馬社
1927(昭和2)年、養蚕農家を中心とする組合員12,228人で発足した組合製糸。群馬郡元総社村(現前橋市元総社町)に工場を置いた。第二次世界大戦で軍需産業に切り替え、45年の空襲で全焼した。