絹人往来

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技術員 霜害対策に全力 星野 敏行さん(75) 川場村川場湯原 掲載日:2007/3/28


当時の写真を広げる星野さん
当時の写真を広げる星野さん

 「ここは寒くて昔から霜の被害が多かった地域。大凍霜害ではここら辺の桑畑はみんな駄目になった。餌不足で飼いきれない蚕を処分するとき、生産者が流していた涙が今でも忘れられない」
 1957年に利根沼田地域を襲った大凍霜害では、重油を入れた缶に火を付けて桑畑の温度をあげる「重油焚(た)き」の実証実験を行って、被害防止策をPRした。まとめた結果を生かして、全国蚕業技術員体験発表会に出場。全国3位に選ばれた。
 「温度管理のため、一晩中寝ずに重油の補給をしなくてはならないから普及はしなかったけど、授賞式の時は晴れがましい気持ちでいっぱいだった」
 県蚕業講習所を卒業した1952年、農協に就職した。技術員として40年間、利根沼田地域で養蚕技術の普及に携わった。
 「養蚕業の景気が良かった60年代から70年代は飼育所の建設ラッシュに沸いていた。技術員育成のために泊まり込みの講習会で講師を務めたほか、有線放送を利用した飼育指導や飼育所の機械の修理などに大忙しだった」
 川場村に70年、大きな蚕室を一カ所に設けて、温度を集中管理する「大部屋方式」の飼育所が完成。4年後には、温度管理に加え、自動で飼育かごを餌やり場まで運ぶ「らせん方式」の飼育所が3カ所できた。最新の設備を理解している技術員が少なく、独学で運用法を学んで運営に携わった。
 「飼育所のすべての蚕を一緒に飼育するため、同じ種類にする必要があった。今まで使っていた種を変えてもらえるように各農家への説得に回ったが苦労した」
 81年には人生で二度目となる大凍霜害を経験。多くの蚕を処分するところを目の当たりにした。
 「飼育所の同僚が、直前まで飼っていた蚕を処分して埋めたところに、手向けに花を添えた。これほど悲しい光景は無かった」
 霜害対策として人工飼育の導入に力を注ぎ、86年に各飼育所が閉鎖されるまで、見守り続けた。
 「養蚕は地域の主要な農産物。76年には地域の農産物販売額の6割を占めていた。作柄の責任がかかる技術員は大変だったが、やりがいがある大きな仕事だった」

(沼田支局 田島孝朗)