絹人往来

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荒船風穴 「冷蔵庫」で蚕種を貯蔵 石井 茂夫さん(81) 下仁田町南野牧 掲載日:2006/06/07


荒船風穴について語る石井さん
荒船風穴について語る石井さん

 長野県境に近い下仁田町南野牧の屋敷地区。集落の奥深くに、天然の「冷蔵庫」として蚕種を貯蔵していた「荒船風穴」があった。
 「幼いころには、風穴の入り口に番人がいて、蚕の種を守っていた記憶がある。子供たちは種屋から頼まれて、学校へ行くついでに蚕の飼育所のあった本宿(下仁田町西野牧)に種を持って行った。これが、いい小遣い稼ぎになった」。石井茂夫さん(81)は当時を鮮明に語る。
 屋敷地区で養蚕が盛んだった1905年、同町の庭屋静太郎氏が風穴を完成させた。最盛期には蚕種が付いた紙70万枚を貯蔵していたという。
 「富岡はもちろん、県境だから長野県からも蚕の鑑別師や行商人らいろいろな人が訪れ、にぎやかなもんだったよ」
 蚕が繭を作る5月半ばから6月にかけての半月ほどは、小学校に「お蚕休み」という慣習があった。そのころには十段ほどの蚕棚が居間に置かれ、家族とともに蚕の世話に追われる日々が続いた。
 「集落の人たちは協力し合って仕事をした。子供たちはみな、桑の葉を切っては持っていき、蚕に餌をやっていた」
 当時、石井さんの父親は稲作を行っており、養蚕農家に生まれた母親が養蚕の中心となっていた。母親が父親に対して「なぜ、お蚕をやらないんだ」と冗談交じりに愚痴をこぼしていたのを聞いた覚えもある。
 「母は養蚕が本当に好きだった。よく売り物にならない繭で服を作り、クルミの木の皮を染料にしていたから、戦時中でも黄色のズボンをはいていた。近所にも敷物を作っておすそ分けして喜ばれていたな」
 冷蔵庫が1930年代に普及すると、次第に風穴は使用されることはなくなった。同地区では戦後10年ほどで「商売にならない」と養蚕を止める農家が増えた。集落の人たちは市街地へ働き口を求めた。
 かつては一面に桑畑が広がっていた山あいの土地を見渡して言う。
 「繭の時期には、桑の葉を背負って、畑中を走り回った。蚕の世話は本当におおごとだったけど、集落には活気があった。一つの共同作業をすることで、どの家族もみんな仲が良かったよ」

(富岡支局 三神和晃)